エジプト戦役 28:反乱の増加とドゼー師団の南下の開始
Desaix's Division begins its southward march
フランス兵襲撃事件や反乱の増加
1798年8月中、ミヌフィーヤ州やマンスーラ周辺の村々をはじめ、エジプトのあちこちで反乱やフランス兵が襲撃される事件が起こっていた。
ナイルの海戦でのフランスの敗北によりエジプトの民衆が勇気づけられたのだろうと考えらえていたが、実際はデルタ地帯やダカリーヤ州周辺での事件はダカリーヤ州の支配者ハッサン・トゥバールの策動によるものだった。
アレクサンドリアやダマンフールなどでの反乱、エジプト中でのフランス兵襲撃事件の増加は、「フランスがナイルの海戦で敗北したから」や「フランス人は異教徒だから」という理由が一般的に言われていることだが、それらはきっかけやプロパガンダであり、考え方の違いはあるかもしれないがナポレオンがムラード・ベイやイブラヒム・ベイ、そして各州の首長よりも良い統治をしていれば反乱は早々起こらないはずである。
実際のところフランス軍はあらゆる名目で税を徴収し、馬や家畜などを徴発していた。
つまり、第一次イタリア遠征時と同様にエジプトでも寄付金という名の重税を課し、徴発し、住民の不満を軍事力によって抑えつけていたため、フランスが不利になると住民反乱が起きるのである。
ボナパルトは地方の司令官が住民にどのような金銭的寄付を課すことも禁じていたが、ボナパルト自身が寄付金を要求し、徴発を命じていた。
ナポレオンはこれらの反乱や襲撃事件に対して武力で解決を図り、寄付金を課したり、見せしめとして村を焼き払ったり、処刑するなどして対応した。
しかし、ボナパルト自身がいるカイロでも、遠く離れたマルタにおいても住民の不満は燻っていた。
エジプト研究所の設立
※左:ハッサン・カシェフの邸宅または研究所の1階と2階の平面図及び中庭と庭園側から見た外観。右:ハッサン・カシェフの邸宅の広い部屋の断面図と内観。中庭の門の詳細。
右上の広い部屋の絵をよくみると部屋の中央付近にナポレオンが描かれ、この絵を描いたプロタイン自身が奥に座っている人物として描かれている。
※左:玄関門とハッサン・カシェフの邸宅の詳細。ガーデントレリスの表示と詳細。右:ハッサン・カシェフの邸宅または研究所の庭の眺め。イブラヒム・カトクダ・アル・シンナリの邸宅の平面図。イブラヒム・カトクダ・アル・シンナリの邸宅の内観と断面図。
※「エジプト誌:近代国家、図版 第1巻(Description de l'Égypte, Etat Moderne,Planches Tome Premier)」(1809)より抜粋。ジャン・コンスタンタン プロタイン(Jean Constantin Protain)画。1800年。
8月22日、カイロにエジプト最古の科学研究所であるエジプト研究所が設立された。
ボナパルトは、エル・サイーダ・ゼイナブ(El Sayeda Zeinab)地区エル・ナシーリヤ(El Nasereya)にある15世紀に活躍した「海のベイ」であるカシム・ベイ(قاسم بك)の宮殿、アブー・ユースフ(Abu Yusuf)の邸宅、ハッサン・カシェフ・ジャルカス(حسن كاشف جركس)の新旧の宮殿、イブラヒム・カトクダ・アル・シンナリ(إبراهيم كتخدا السناري)の邸宅とその周辺を王子たちの宮殿を解体した資材で改装もしくは建設して科学者たちの住居兼研究複合施設を築き上げていた。
これらの建物の中で集会はハッサン・カシェフ・ジャルカスの宮殿で執り行われ、研究所の中心的役割を果たした。
その後、エジプト研究所は、プロパガンダ雑誌「エジプト急便(Courier de l'Égypte)」や学術誌「エジプト人の10年(La Décade égyptienne)」、「エジプト及びシリア戦役のボナパルト将軍の回想録 1798~1799」の出版、パン焼きの改善、製粉所の建設、エジプトの司法制度や教育制度の確立などに取り組むこととなる。
翌23日午前7時、ボナパルトはエル・ナシーリヤにあるカシム・ベイの宮殿の近くのハッサン・カシェフの宮殿でエジプト研究所の開会式を開催した。
ダカリーヤ州を治めるハッサン・トゥバールとの交渉の開始
※ダカリーヤ州のハッサン・トゥバール。
ボナパルトにとってハッサン・トゥバールが支配するダカリーヤ州は重要な地域だった。
そのためハッサン・トゥバールに協力を求めるためにヴィアル将軍を介して金メッキの剣を含む贈り物を持って面会を求めた。
しかし、ハッサン・トゥバールは自らの本拠地であるエル・マンザラ(El Manzalah)から僅か7㎞しか離れていないエル・ジャマリーヤがフランス兵たちによって焼き払われたことに強い憤りと不安を感じており「あなたたちがエル・ジャマリーヤ(El Gamaleya)を焼き払ったことで生じた不安が会うのを妨げている。エル・ジャマリーヤの人々は我々が守っていると考えているため、これらの地域でのこのような行為は恥ずべきことである。」と言って、ボナパルトから贈られた貴重な品物を受け取らず、厳しい態度で応じた。
これらのやり取りの間、ハッサン・トゥバールはフランス軍に対する戦争の準備を行っていただけでなく、ダミエッタ、マンザラ湖周辺、そしてマンスーラの地域の住民の元を訪れ、自ら民衆にフランスへの抵抗を呼び掛けていた。
ドゼー師団の南下の開始
※1798年8月25日、ドゼー師団の南下の開始。
8月25日夜明け、ドゼー将軍はカイロのブウラク港を出港し、師団の一部とともにナイル川を遡り、ナイル川右岸にあるアトフィへ向かった。
残りの師団は陸からナイル川左岸側を南下した。
北風が帆を満たし、西岸にはピラミッド群が続いていた。
鶴、朱鷺、猛禽類の群れが、対岸の山の斜面の乾燥した峰の上に浮かんでいた。
ドゼー将軍はアトフィに到着すると、24時間留まってムラード・ベイ軍の動向を観察した後、左岸の師団と合流し、師団の先頭がアトフィの対岸(恐らく、現在のAR Riqqah、もしくはAR Raqa Al Gharbeyah付近だと考えられる)に到着し始めた。
※1798年9月26日付のナポレオンのランポン将軍宛の書簡には、「現時点では、ドゼー将軍はあなたの高さに違いありません。」と予想されている。ドゼー師団の最初の集結地点であるアト・タルファヤ(At Tarfayah)からナイル川左岸に沿って進むとアル・リッカ(AR Riqqah)まで約50㎞であり、徒歩での移動距離としては2日分である。しかし、前衛は本隊より前に進んでおり、より早くアトフィの対岸にたどり着くことができる。ナポレオンの計算が正しいとするとドゼー師団の先頭は26日中にアトフィの対岸に到着したと考えられる。
※「ベルティエ元帥の回想録(1827)」には、「12日(8月30日)、師団はアル・フィエルディ(Al Fieldi)で再集結した。」とあるが、アル・フィエルディがどこかは不明である。
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