エジプト戦役 35:ドゼー将軍のアシュート遠征
General Desaix launches the Asyut Campaign

ドゼー師団によるジョセフ運河の入り口の占領

【エジプト遠征】1798年9月14日、ドゼー師団によるジョセフ運河入り口の占領とアシュートへの進軍

※1798年9月14日、ドゼー師団によるジョセフ運河入り口の占領とアシュートへの進軍。

 1798年9月13日、ボナパルトが各師団にコーヒー豆の配給を命令している頃、ドゼー師団はアブー・ジルジから約120㎞南に位置するダイルート・エル・シャリーフ付近に到着していた。

 そして翌14日にジョセフ運河の入り口に陣取った。

 そこでムラード・ベイ軍と合流予定だったマムルーク軍が残りの軍艦とともにアシュートを占領しているとの情報が舞い込んできた。

 そのため14日午後、ドゼー将軍は後続の第21半旅団を護衛するようアーヴィソ(小帆船)に命じた後、半ガレー船2隻、第61半旅団の2個大隊と第88半旅団の2個大隊を率いてアシュートに向かって行進した。

 その後、ジョセフ運河の入り口に到着した第21半旅団の分遣隊とアーヴィソはデイルート・エル・シャリーフに残り、カイロとの連絡線を守った。

ギザ州の脅威への対応

 9月15日までに、ボナパルトは、ドゼー将軍がアル・バーナサでムラード・ベイ軍を打ち破り、その後、ムラード・ベイはファイユーム州へ向かったとの報告を受け取った。

 そのため8月19日以来、ギザで病床に伏しているベリヤード少将にギザ州を再び指揮できるかどうかを尋ね、もし可能ならファイユームにおけるムラード・ベイの動向について調査するよう命じた。

 この時、フランス軍は眼病の蔓延やエジプトのあちこちで起こる反乱に対処するために人手不足であり、そのため快癒方向とはいえ病気療養中のベリヤード少将を頼らざるを得ない状況だった。

 ムラード・ベイがおとなしくナイル川を南下して撤退して行けばよかったのだが、ファイユーム州へ向かったことにより、ギザ州が脅威に晒されてしまうこととなった。

ドゼー師団のアシュートの占領

1798年9月15日、ドゼー師団によるアシュートの占領

※1798年9月15日、ドゼー師団によるアシュートの占領。

 9月15日、ドゼー師団はアシュートに到着した。

 マムルーク軍はドゼー師団が近づくと逃げ出し、ジェルメと軍艦をギルガ州の州都ギルガ(Girga)まで後退させていた。

 その後、ドゼー師団はアシュートを占領した。

 上エジプトの首都であるアシュートは過ごしやすい場所であり、兵士たちはこの人里離れた谷の底にある豊かな領域にいることを忘れているようだった。

 フランス兵達はアシュートで最も美味しい果物を摘み、ナイル川は太陽の疲れと暑さを和らげ、感動的な光景を目にした。

 兵士達はエジプトの歴史に無知だったにもかかわらず、多くの遺跡に心が奪われているようだった。

 洞窟の中には修道士達が断食と祈りの中で暮らしていた場所があり、聖なる修道士の像が飾られていた。

 そして兵士達はこの光景を家族に語る日のことを思い浮かべた。