エジプト戦役 04:ロゼッタ占領と将軍や兵士達の不安と不満 
Occupation of Rosetta and anxiety and dissatisfaction of generals and soldiers

砂漠を横断するナポレオン軍

※「砂漠を横断するナポレオン軍」。R・H・ホーン(R H Horne)著「ナポレオン・ボナパルトの歴史(The History Of Napoleon)」の挿絵から引用。

ロゼッタ占領とナポレオンのダマンフールへの出発

 ドゥガ師団は7月6日にペレー(Perrée)艦隊の支援下でアブキール要塞を占領し、7日朝、マムルーク軍の守るロゼッタを占領した。

 そしてナイル川を遡ってカイロ方面に向かう準備を行った。

 それに伴ってボナパルトは午後3時にアンドレオシー工兵将軍率いる2,000人の工兵と砲兵をロゼッタに派遣した。

 アンドレオシー工兵将軍の目的はロゼッタのボートや船舶の拿捕し、ロゼッタの側を流れるナイル川に橋を架けることだった。

 メヌー将軍はアレクサンドリアの戦いで受けた傷が完全に癒えるようロゼッタの防衛を指揮した。

 ボナパルトはロゼッタを兵站拠点とし、ナイル川を利用して物資の移動や連絡をスムーズに行なうよう計画していた。

 そのため将来的にボナパルト本体とアレクサンドリアを防衛するクレベール将軍やロゼッタを防衛するメヌー将軍との連絡役をドゥガ師団が担うこととなっていた。

 そしてアレクサンドリアの住民を安心させるためにコライム・パシャをアレクサンドリアの行政長に任命した。

 行政長といってもすべてはフランス軍の管理下にあり、両者ともお互いを信頼しているわけではなかった。

 この日、ボナパルトはボン師団とともにアレクサンドリアを出発し、ダマンフールへ向かった。

将軍達の不安と不満

 7月8日、ドゥガ師団はナイル川に沿って南下し、アル・ラフマニーヤ(AR Rahmaniyyah)を目指した。

 7月9日、ダマンフールに本部を置き、3個師団(ドゼー師団、レイニエ師団、ボン師団)、1個騎兵師団(デュマ騎兵師団)、1個旅団(ヴィアル旅団)を集結させたボナパルトは、軍議を開いた。

 ダマンフールまでの行軍はフランス軍にとって非常に過酷なものだった。

 フランス軍は強力な日光が降り注ぐ乾燥した砂漠地帯を、環境に対応していないイタリアやドイツで着ていたものと同じ軍服や軍靴を身に着け、水は持たず、装備と5日分の食糧を持ち、アレクサンドリアからダマンフールまでの約70㎞の道程を3日で行進した。

 水場は少ない上に村にある井戸は海水が混じった質の悪い井戸が多かった。

 アル・カリュン村の井戸の質はかなり良く、そこから6キロほど離れたビルケット・ガッタス村の外には3つの貯水池があり、その内の2つは質が悪く、残りの1つは質は良いがグラスを満たすにはスプーンで取らなければならないほど水量が少なかったと記録されている。

 一時的に楽になるために重い食糧を投げ出す者さえいた。

 ベドウィンが常にフランス軍の周囲を徘徊して落伍兵や孤立した兵士、小部隊を襲撃し、物資の供給もままならなかった。

 暑さにやられ武器の重みで倒れる者達や蜃気楼により目の前の川や湖の幻影に惑わされ精神力が尽きて死亡する者達もいた。

 蜃気楼の幻影により精神力が尽きて死亡した者達の中に言葉では言い表せない幸福感に包まれ安らかな顔で息を引き取った兵士がいた。

 フランス兵達は安らかな顔の死者を見て、窒息による甘くて安らかな死だと噂した。

 あまりに過酷な行軍だったため「フランス人の死刑執行人がいる!」と叫ぶ下士官や、「これがあなたの仕事だ!」と将軍の目の前で自殺する者もいたほどだった。

 軍議で各師団長は灼熱の砂漠での過酷な行軍に対する不満を訴えた。

 ミルール将軍などは総裁政府に対する不満を訴え、エジプト遠征はナポリ王国とサルディーニャ王国を屈服させてイギリス艦隊の脅威を排除した後に行なうべきだったと主張した。

 確かにイギリス艦隊の脅威は常に付き纏っており、エジプト遠征は性急過ぎであると思われた。

 麾下の将軍達もイギリス艦隊を脅威に感じていた。

 この時ボナパルトもイギリス艦隊の脅威を確かに感じていたものの自身がねじ込んだエジプト遠征を中止するわけにはいかなかった。

 そのためミルール将軍の発言を封殺するために、騎兵隊の指揮権を剥奪し、後任をダヴー少将に委ねた。

 この日、ミルール将軍は新たに購入したアラブ馬を野営地の外で試し乗りをしようとし、衛兵の忠告にもかかわらず野営地から200歩離れた丘に向かった。

 その途中、ミルール将軍はベドウィン3人に奇襲され、槍で貫かれて死亡した。

 ナポレオンと同じ28歳だった。

※1792年6月23日、22歳のミルール将軍はとある晩餐会でクロード=ジョゼフ・ルジェ・ド・リール(Claude-Joseph Rouget de Lisle)作曲の「ライン軍のための軍歌(Chant de guerre pour l'armée du Rhin)」を披露した。この歌を聞いたマルセイユ義勇軍の兵士達はこの歌を口ずさみながらパリに行進し、7月下旬頃、マルセイユ義勇軍がパリに入った際もこの歌を歌っていた。パリの市民達はこの歌を気に入り、瞬く間にパリ中に広まった。パリの市民達は原題を知らずマルセイユ義勇兵が歌っていたため「ライン軍のための軍歌」ではなく「ラ・マルセイエーズ(マルセイユの歌)」として人々の間で定着した。その後、「ラ・マルセイエーズ」は1795年7月14日に国民公会でフランス国歌として採用された。

参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Niello Sargy著「Memorie istoriche sopra la spedizione in Egitto di N. Bonaparte, Volumes 1-3」(1834)

・その他