エジプト戦役 36:エル・ショアラの戦い
Battle of Ash Shuara

1889年のダミエッタ周辺地図。

※1889年のダミエッタ周辺地図。エル・ショアラの戦いから約90年後の地図だが、マンザラ湖の大きさが現在よりもだいぶ大きい。恐らく、ナイル川の氾濫時期はもっと大きくなると考えられる。ダミエッタのすぐ南西にある「Esh Sharah」が戦場となるエル・ショアラ村である。

ハッサン・トゥバールの決起

1798年9月15日~16日、ハッサン・トゥバールによるダミエッタ襲撃

※1798年9月15日~16日、ハッサン・トゥバールによるダミエッタ襲撃

 大艦隊を組織し、民衆を扇動したエル・マンザラのシェイク(首長)であるハッサン・トゥバール(Hassan Toubar)は、遂に裏で進めていたダミエッタ襲撃計画を実行に移した。

 9月15日夜から16日未明にかけて、デルネ(Derne)とマンザラ湖周辺の住民達がハッサン・トゥバールの指導下でダミエッタの守備隊を攻撃した。

※デルネ(Derne)とはダカリーヤ州デケルネス(Dekernes)地域のことだと考えられる。

 ハッサン・トゥバールはマンザラ湖で艦隊を率い、ダミエッタの民衆もこの攻撃に加わった。

 トゥバール軍はダミエッタの前哨陣地でフランス衛兵を殺害することに成功した。

 しかし、武器の性能差は明らかであり、それ以降トゥバール軍は攻めあぐねた。

 ダミエッタ守備隊は圧倒的な数的劣勢にもかかわらず、四方八方から押し寄せてくるトゥバール軍を撃退することに成功した。

エル・ショアラの戦い

1798年9月19日、エル・ショアラの戦い

※1798年9月19日、エル・ショアラの戦い

 9月16日、ダミエッタへの攻撃を撃退されたトゥバール軍はダミエッタの大砲の射程内にあるエル・ショアラ(El Choa'rah)村に集結し、本拠地とした。

※エル・ショアラ(El Choa'rah)村とは、ダミエッタの南西約2.5㎞の所に位置する現在のアシュ・シュアラ(Ash Shuara)のことだと考えられる。

 トゥバール軍とダミエッタ守備隊は双方とも17日と18日に増援が合流し、エル・ショアラ村は塹壕が張り巡らされて要塞と化した。

 そして増援を受け取り攻撃の準備を整えたヴィアル将軍は19日夜明けにエル・ショアラ村を攻撃することを決定した。

 9月19日、アンドレオシー将軍が船団の指揮を執り、エル・ショアラ村を越えて上陸した。

 トゥバール軍は一列に整列し、ナイル川からマンザラ湖までの全域を占領し、その数は10,000人を超えていた。

 ヴィアル将軍は第25歩兵中隊を派遣し、自身が攻撃している間にトゥバール軍右翼を攻撃させ、マンザラ湖経由での退路を遮断した。

 ヴィアル将軍が全速力でトゥバール軍の大軍に正面から攻撃すると、トゥバール軍はナイル川の氾濫の水が流入して増水しているマンザラ湖に転落した。

 その後、エル・ショアラ村は略奪され、燃やされた。

 この戦いでフランス軍はとても美しい4門の青銅製の大砲の内の2門と軍旗3旈を奪い取った。

 フランス側の損害は、死者1人、負傷者4人だけであり、トゥバール軍の損害は、1,500人以上が死亡または溺死したと言われている。

 こうして、10,000人~12,000人のアラブ人が400人~500人のフランス兵に撃破された。

 戦いの後、多数の移動部隊でダミエッタ州とマンスーラ州のすべての村を巡回させ、トゥバール軍の指導者を厳しく罰した。

 しかし、首魁であるハッサン・トゥバールを捕らえることはできなかった。

 ナイル川の氾濫は、例年であればエチオピア高原の雨期である8月~9月にナイル川上流域へと流れ込んだ雨水を集め、9月中旬から10月上旬にかけて中流から下流が増水し、順に自然堤防を超えて両岸にあふれ出し、1ヶ月間とどまり、その後渇水期に入る。

 エル・ショアラの戦いは9月19日であり、ちょうど中流から下流が増水する時期にほぼ合致する。

ロゼッタでの反乱

 9月17日~21日の間、ロゼッタでも反乱が勃発し、メヌー将軍がその対応に追われた。

 メヌー将軍はロゼッタの反乱を鎮圧しすることに成功したが、周辺の村々は未だフランスに反抗的であり、メヌー師団は少数だったためこれ以上兵士を失うわけにはいかず、その対応に苦慮した。

 この反乱はハッサン・トゥバールの蜂起の時期と一致しており、それに呼応したものか、もしくはハッサン・トゥバールが扇動したものだと考えられる。

 これにより、ロゼッタ~ダミエッタ間の連絡は一時的に分断され、メヌー師団はダミエッタを支援することができなかった。