エジプト戦役 41:カイロでのスパイの蔓延と軍資金の枯渇
There are a lot of spies in Cairo, and Military funds have run out
ソーマレス戦隊のマルタへの到着
※1798年9月下旬、ソーマレス戦隊のマルタへの到着
1798年9月下旬、アブキール湾を発ちジブラルタルに向かっていたソーマレス艦長率いる13隻の戦隊がマルタ沖に現れた。
ナイルの海戦を戦い抜いたこれらの艦は緊急の修理が必要であり、要塞都市ヴァレッタを包囲しているマルタ軍を直接支援することはできない状態だった。
それにもかかわらずソーマレス艦長はマルタ軍の代表と会い、9月25日に彼らに代わってヴォーボワ将軍に休戦を申し入れる書簡を送った。
ヴォーボワ将軍は「あなたたちはフランス軍がこの地を支配していることを忘れているのだろう。住民の運命はあなたたちには関係ない。休戦の申し入れについては、フランスの兵士はそのようなやり方に慣れていない。」と返答した。
9月30日、フランス軍との休戦は実現できなかったが、ソーマレス戦隊はボロボロであり、これ以上修理を遅らせることはできない状況だった。
ソーマレス艦長はマルタ軍にマスケット銃1,200挺を供与し、マルタ島を離れてジブラルタルへ向かった。
カイロでのスパイの蔓延と軍資金の枯渇
一方、9月25日、カイロではオスマン・ベイの妻がムラード・ベイ陣営と書簡のやり取りをしていたことが判明した。
ボナパルトは夫の元に行きたいと望むオスマン・ベイの妻にカイロに留まるよう命じ、軍の主計基金に10,000タラリを支払うまで刑務所に入れるよう命じた。
オスマン・ベイの妻の件は氷山の一角であり、フランス軍のほとんどの者はアラビア語が理解できず、カイロではスパイが蔓延っていた。
カイロの警備を担当しているデュプイ将軍も、後日2人のスパイを逮捕するなどして摘発を行なっていたが、タイムラグはあるとはいえムラード・ベイにカイロの情報はほぼ筒抜けだった。
しかし、フランス軍の軍資金も枯渇していたためオスマン・ベイの妻に罪を赦す代わりに罰金を課したのである。
尚且つ、ムラード・ベイの妻や業者に課した寄付金はまだ支払われておらず、もし26日までに支払わなかった場合、業者には警備兵を派遣して回収し、ムラード・ベイの妻は寄付金が増額されることとなった。
そして相続人のいない死者の財産に関してもすぐに軍資金にするよう命じた。
ボナパルトにとって軍を維持し、エジプトの支配を確立するために資金の回収は最優先事項の1つだった。
もし軍への支払いが滞った場合、ただでさえ厳しい環境での活動により不満が蓄積しているフランス兵の不満はさらに高まり、不服従が広がる可能性があった。
まだエジプトを完全に支配したわけでは無く、オスマン帝国との関係は不安定であり、本国との連絡線をイギリスによってほぼ遮断されている状況で軍の不服従が横行した場合、フランス軍の立場は危ういものとなると考えられた。
しかし、エジプト人の目には自分たちの財産が不当に奪われているとしか映っておらず、この厳しい取り立てにフランス軍の統治への不満はさらに高まっていった。
ハッサン・トゥバール討伐令
※ハッサン・トゥバール討伐計画
9月26日、遂にハッサン・トゥバール討伐準備が整った。
ボナパルトはドゥガ将軍にハッサン・トゥバールの本拠地であるエル・マンザラの占領を命じた。
ハッサン・トゥバールを欺き、もし捕らえることができたならカイロに送るよう要望した。
その間、地中海の海岸沿いを偵察し、ミュラ将軍はメヌーフ州を制圧しつつミット・ガマル(Mit Ghamr)に向かい、その後、ミット・ガマルから約4㎞離れたドンダイト(Dandit)村の抵抗を排除する計画だった。
ミュラ将軍の機動はいざという時のドゥガ師団の支援、トゥバール軍の残党がナイル川やカイロ方面に逃亡してきた場合の対応、ダミエッタやエル・サルヘイヤとの連絡線が遮断されないようにするための予防措置という三重の意味があった。
ボナパルトは、ヴィアル旅団が20倍以上のトゥバール軍を撃退したことから、トゥバール軍の戦力を数は多いが弱いと見積もっていた。
実際、トゥバール軍の武器はマスケット銃や大砲などの近代的なものが少なく、その運用も稚拙なものだった。
尚且つ、多くはこん棒や短剣、サーベルなどを装備し、フランス軍のように軍として訓練されているわけでは無かったため、ほぼ烏合の衆だった。
そのためボナパルトはトゥバール軍の本拠地であるエル・マンザラの占領は単なる通過点であるかのうように各将軍に指示を出した。
ドゥガ師団は陸からエル・マンザラを目指し、アンドレオシー将軍は船団を率いてマンザラ湖に乗り出して湖の港を封鎖しつつトゥバール軍の退路を遮断するためにヴィアル旅団とともにペルシウムへ向かうのである。
翌27日、シリアへ放ったスパイから、イブラヒム・ベイがガザで民兵を集めて2,000人~3,000人の軍を組織したとの情報が入ってきた。
そのため、レイニエ将軍にシリア方面の情報を知ったらすぐに知らせるよう要求した。
この時、ボナパルトはシリア方面の防御を早急に固めなければならない気配を察していた。
ボナパルトとしては、早急にエル・マンザラを占領し、マンザラ湖の制海権を手に入れ、マンザラ湖の東方に要塞を築く必要があった。
必死の軍資金確保
9月27日、ボナパルトは宝くじを発行することを決定した。
1枚10タラリの宝くじ券を2,000枚発行してブウラクと旧カイロの宝くじ売り場で販売し、2回目の宝くじは翌月に売り出される計画だった。
この宝くじの収益はフランス軍の軍資金となるのだが、それでも軍資金が足りないのは目に見えていた。
そのため2ヵ月後に支払われる1口50リーブル(livres)の約束手形の発行を計画した。
この方法なら200,000~300,000リーブル分の支払いを先送りできるのではないかと考えられた。
※ナポレオン1世書簡集では計画時点での約束手形の通貨単位をリーブル(livres)としている。タラリ(tarari)やフラン(franc)との関係は不明である。
ミット・ガマルの戦い
※1798年9月30日、ミット・ガマルの戦い
ハッサン・トゥバールに扇動された民衆が、四方をナイル川の氾濫地帯に囲まれているドンダイト(Dandit)村を占領していた。
民衆はドンダイト村が難攻不落であると考え、ナイル川でフランス軍に対して海賊行為を行っていた。
そのため、ミット・ガマルにいたミュラ少将とラヌッセ少将がドンダイト村を制圧するよう命じられ、9月30日にそこに到着した。
民衆たちは軽い戦闘を行っただけで瞬く間に解散させられた。
ミュラ将軍は腰まで水に浸かりながら約20㎞にわたって追跡し、200人以上の民衆が戦死するか溺死するかし、武器やラクダを奪い取った。
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