エジプト戦役 30:ナポレオンの大ピラミッド内での一夜とドゼー師団の州都ベニ・スエフの占領
Did Napoleon spend the night in the Pyramids ?

ナポレオンの大ピラミッド内での一夜

1798年、ピラミッドを訪れたナポレオン。

※1798年、ピラミッドを訪れたナポレオン。作者及び日付不明。

 1798年8月、エジプトの遠征中、ナポレオンはカイロに戻り、クフ王のピラミッドの中で一夜を過ごしたという伝説がある。

 ナポレオンの側近はイスラム教の修道士とともに王の部屋まで同行したが、そこを通るのは容易ではなかった。

 ピラミッドに踏み入れた者たちは大ピラミッドの中心部に到達するまで狭い通路を通らなければならず、その後、コルシカ人はその神聖な場所に1人で残され、一晩中、思いを抱えながら過ごした。

 7時間後、夜が明けるとナポレオンは完全に青ざめ動揺しながら姿を現したという。

 兵士たちが彼に何を見たかと尋ねると、彼は首を横に振ってこう言った。

「たとえ私が話したとしても、あなたたちは信じないだろう。 」

※上記は一般的に知られているおおよその内容だが、調査した中でナポレオンがピラミッドに入った逸話の中で最も古いものは、Willem Lodewyk Van-Ess著「Life of Napoleon Buonaparte, Containing every authentic particular 第2巻」(1809)であり、内容が異なる。
「Life of Napoleon Buonaparte, Containing every authentic particular 第2巻」では、ナポレオンは側近とエジプト研究所のメンバーに付き添われ、強力な護衛兵に守られ、数人のムフティ(イスラム教の律法学者)とイマーム(イスラム教の指導者)に先導されてピラミッドへと進み、そこで急いで5つの下位ピラミッドを視察した後、主に「クフ王」と呼ばれるピラミッドに注意を向けた。さまざまな部屋を調べた後、ナポレオンは従者たちの間で、長さ 8 フィート、深さ 4 フィートの花崗岩の箱の上に置かれた平らな蓋の上に座り、ムフティやイマームなどにも座るように勧め、首席ムフティであるスラマン、イブラヒム、ムハンマドの3人と会話を始めた。(具体的な会話の内容も記載されている。)
ただ、「ブーリエンヌの回想録」ではナポレオンはピラミッドに入っていないという記述があるため、「ナポレオンがピラミッドに入った話」は創作である可能性が非常に高い。何より、最も古い文献が英文というのもこの逸話が創作である可能性を高めている。

ドゼー師団のベニ・スエフ州への侵攻開始とブーシュへの到着

【エジプト遠征】1798年8月30日、ドゼー師団によるベニ・スエフ州への侵攻開始

※1798年8月30日、ドゼー師団によるベニ・スエフ州への侵攻開始

 8月30日、アル・フィエルディに集結しているドゼー師団はギザ州とベニ・スエフ州との州境を越えて侵攻を開始した。

 そして翌31日、州都ベニ・スエフの北約8㎞のところに位置するブーシュ(Bush)に到着した。

 ランポン旅団の前にいたムラード・ベイ軍右翼の4つの部隊もドゼー師団の進軍を知ると撤退して行った。

 それを知ったランポン将軍だったが、体調不良のため療養しておりアトフィから動くことは無かった。

州都ベニ・スエフの占領

 8月31日、ドゼー師団によるブーシュの占領を知ったボナパルトは、ムラード・ベイがまだベニ・スエフにいるなら、すぐに攻撃するよう命じた。

8月31日付のドゼー将軍への書簡・・・「全部隊が合流したらすぐに、もしムラード=ベイがまだベニ=スエフにいるなら(私はそうは思わないが)、行って彼を追い出してください。あなたの艦隊に彼の船を攻撃させれば、確実に物資をすべて奪うことができます。」

 ドゼー将軍はすぐに州都ベニ・スエフを占領した。

 しかし、既にムラード・ベイ軍の姿は無く、もぬけの殻となっていた。

 そして師団をナイル川沿いの町の左右を支援する形で町の前に布陣し、ナイル川を艦隊で護衛させた。

オスマン帝国との関係回復への努力

 同日、ボナパルトはダマスカス総督ジェザル・アフマド・パシャとガザに逃れたエジプト総督セイド・アブー・バクル・パシャに敵対する意思はないという書簡を再度送った。

 ジェザル・アフマド・パシャには、イブラヒム・ベイと彼に従うマムルーク族を排除し、彼らに一切の援助を与えないよう要求した。

 セイド・アブー・バクル・パシャには、カイロに戻って再びエジプト総督を務めて欲しいと望んだ。

 しかし、両パシャともボナパルトに返答することは無かった。