エジプト戦役 23:ナイルの海戦での敗報の到着とクレタ沖でのささやかな海戦
News of the defeat in the Battle of the Nile arrives
1798年8月13日時点でのフランス軍の配置
※1798年8月13日時点でのフランス軍の配置
1798年8月13日、ボナパルトはレイニエ将軍に対しカッファレリ将軍と協力して大要塞をエル・サルヘイヤに建設するよう命じ、エル・サルヘイヤへの兵力の集中とシャルキーヤ(Sharqia)州の指揮を命じた。
そして同時にシリアへスパイを送るよう命じた。
エル・サルヘイヤの防衛強化の目的の1つ目はシナイ半島に入ったイブラヒム・ベイ軍への圧力を強めることであり、2つ目はオスマン帝国がエジプトに侵攻して来た時のための備えである。
この時点でシャルキーヤ州はレイニエ将軍が、カリュービーヤ(Qalyubia)州はミュラ将軍が、ダミエッタはヴィアル将軍が、ガルビーヤ(Gharbia)州メハレット・エル・ケビル(Mehallet el Kebyr)はフジェール将軍が、ミヌフィーヤ(Menouf)州はザヨンチェク将軍が指揮し、ドゥガ将軍はマンスーラに向かっていた。
※メハレット・エル・ケビル(Mehallet el Kebyr)はエル・マハッラ・エル・クブラ(El Mahalla El Kubra)のことだと考えられる。
ドゼー将軍はカイロとギザ、クレベール将軍はアレクサンドリア、メヌー将軍はロゼッタで師団の指揮を執っていた。
レイニエ将軍にシャルキーヤ州の指揮を一任した後、ボナパルトは側近とともにカイロに向かって旅立った。
ボナパルトの元には未だナイルの海戦での敗北の報は届いておらず、イブラヒム・ベイ軍をエジプトから追い出すことに成功し、残るは上エジプトのムラード・ベイだけとなった。
そのためボナパルトの目には病気と兵士達の不満を除けばエジプト征服は順調であるように見えた。
ナイルの海戦での敗報の到着とカイロへの急行
8月13日、エル・サルヘイヤから出発したばかりのボナパルトの元に急使が到来し、ようやくナイルの海戦での敗報が届けられた。
※「ベルティエ元帥の回想録(1827)」には、「カイロに戻る途中でアブキールでの海戦の詳細とニュースを受け取った。」とあるが、「ナポレオン1世書簡集」ではカイロから30リーグ(約120㎞)離れた最前線で書簡を受け取ったと書かれている。カイロから30リーグ離れた最前線とはエル・サルヘイヤのことである。
それはクレベール将軍の副官からの書簡であり、オリエントの爆発から生き延びてアレクサンドリアに避難したガントーム少将の報告書が同封されていた。
ボナパルトは状況を把握して対応策を指示するためにカイロへと急いだ。
ナイルの海戦での敗報を知った後のナポレオンは深刻そうな様子もなく、陽気に過ごしていたと言われている。
恐らく、総司令官が深刻な顔をしていれば軍の士気に関わると考えたのだろう。
クレタ島沖でのリアンダーとジェネルーの戦闘
※1798年8月18日、50門の大砲と282人の乗組員を擁する 戦列艦「リアンダー」と、74門の大砲と936人の乗組員を擁するフランスの戦列艦「ジェネルー」との戦闘。リアンダーがジェネルーを攻撃している様子。チャールズ・ヘンリー・シーフォース(Charles Henry Seaforth)作。
8月15日、50門の大砲を搭載したイギリス4等戦列艦リアンダーは、元ヴァンガード艦長エドワード・ベリーを乗せ、ナイルの海戦の大勝利を伝える先触れとして本国に派遣された。
しかし、その航海中の8月18日、クレタ島沖で74門の大砲を搭載したフランス3等戦列艦ジェネルーと遭遇した。
リアンダーはナイルの戦いでの損傷を修復しきれておらず、さらに負傷者を乗船させていたため、トンプソン艦長は逃走を試みた。
しかし、ジェネルーの方が足が速く、追いつかれて戦闘に突入した。
3等戦列艦と4等戦列艦では艦の大きさ、大砲や乗組員の数などが違い、リアンダーは不利な戦いを強いられた。
リアンダーの乗組員は長時間抵抗し、砲弾、バール、釘、その他あらゆる物が艦から無くなり操舵不能となるまで勇敢に戦った。
血なまぐさい戦いであり、戦いの最中、元ヴァンガード艦長ベリーも飛来した他人の頭蓋骨の破片に腕を貫かれて重傷を負った。
トンプソン艦長はベリーと協議した後、降伏することに同意し、旗を降ろす(降伏する)よう命じた。
この戦闘でのリアンダー側の損害は死者35人、負傷者57人、合計92人であり、ジェネルー側の損害は死者100人、負傷者188人、合計288人だったと言われている。
戦力的にリアンダーが不利だったにも関わらず、ジェネルーに3倍以上の損害を与えていたことになる。
その後、リアンダーは拿捕され、ベリーとトンプソンはジェネルーに移された。
そして、ジェネルーに到着するとすぐに所持品を奪われ、フランス兵達はリアンダーを略奪し、負傷者の手当てをしようとした軍医の器材まで奪い取った。
トンプソンが抗議し、ネルソンの指揮下でフランス人捕虜がどのように扱われたかをフランス艦長に思い出させたが、その返答は「申し訳ないが、フランス人は略奪が得意だ」というものだったと言われている。
捕虜となったベリーとトンプソン艦長がイギリスに帰国できたのは12月に入ってからとなった。