エジプト戦役 13:ナイルの海戦(アブキール湾の海戦)におけるフランス艦隊の布陣とネルソンの作戦 
The formation of the French fleet and Nelson's strategy in the Battle of the Nile

ネルソンの決断

 フランスの国旗を発見して歓喜していたネルソンは、これまでの間、数日間もほとんど食べず、寝ていなかった。

 ネルソンはすぐに冷静になり、夕食を準備するよう命じ、その間にヴァンガードの戦闘準備が整えられた。

 ペロポネソス半島のコロニ(Coroni)で拿捕したフランス商船を曳航していたカローデンは東に11㎞ほどのところでフランス商船を放棄した後、本隊の元に向かった。

 1798年8月1日午後4時22分、アブキール湾沖に到着したネルソン戦隊は減速し、再編成しつつしばらくアレクサンダーとスウィフトシャーを待った。

 ネルソン戦隊の右翼はゴリアテ、ジーラス、オリオン、オーディシャス、カローデン、テセウス、リアンダー、左翼はヴァンガード、ミノタウロス、ディフェンス、ベレロフォン、マジェスティックであり、右翼はフランス艦隊左翼側から入って後部に迂回し、左翼は右翼のさらに内側を回ってフランス艦隊左翼の前部に停泊して前後を挟撃する計画だった。

 午後5時頃、満潮によりアブキール湾の海面が上昇し始めた。

 アブキール湾の海図はゴリアテを指揮するフォーリー艦長が所有しておりほとんどの艦にそのコピーが配られたが、海底地形までは描かれておらず、ネルソン戦隊の士官すべてがアブキール湾について全く知らなかったため、各艦は待機中も常に水深を測り続けた。

※フォーリー艦長が所有していたのは、ジャック=二コラス・ベリン(Jacques-Nicolas Bellin)の地図だと言われている。

 水深は15、14、13、11、10ファゾム(27 m、25.2 m、23.4 m、19.8 m、18 m)だった。

※1 fathom ≒ 1.8m。5つの数字があるため、ネルソン戦隊左翼の各艦が計測した数字だと考えられる。

 観察するとフランス艦隊は海岸近くに停泊し、強力でコンパクトな戦列を築いているように見えた。

 フランス艦隊の形状は鈍角(90度以上180度未満の角)であり、側面には多数の砲艦と4隻のフリゲート艦があり、アブキール島には小さな砦が築かれ、大砲と迫撃砲の砲台があった。

 この状況はフランス軍にとって最も有利な位置を確保しているように見えた。

 フランス艦隊の背後は浅瀬で座礁の危険があるように見え、左翼側は艦砲以外にもアブキール島などからの砲撃に晒される危険があった。

 しかしネルソンはフランス艦隊を観察し、フランスの艦が揺れる余地があるところは、イギリスの艦も停泊できる余地があると推測した。

 加えて、風上(北西)から攻撃を開始して風下(南東)に下った場合、フランス艦隊右翼は風向きが変わるまで戦場に駆け付けることができないと考え、攻撃を決意した。

 ネルソンはフランス艦隊左翼側からの各個撃破に勝機を見出したのである。

 その後、ネルソンはヴァンガードに各艦長や士官達を集めて作戦を伝え、ゴリアテとジーラスが戦隊を先導し、フランスの戦列艦や砲艦、アブキール島など陸地の砲台から最初の砲撃を受ける名誉を与えられた。

 この時、ゴリアテのフォーリー艦長とジーラスのフッド艦長は戦隊を先導する栄誉を争ったと言われている。

 そしてフランス艦隊の背後に侵入できるかどうか確かなところは不明だったため、ゴリアテのフォーリー艦長に、もしフランス艦隊の背後に侵入できなかった場合、フランス艦隊左翼の前部に密集して対峙するよう命じ、背後に侵入するかどうかの判断を委ねた。

 旗艦ヴァンガードでの夕食の準備が整うと、ネルソンは士官達と戦い前の晩餐会を開き、立ち上がりながら次のように言った。

「明日の今頃には、私は(勝利の報酬として)爵位を得ているか、(戦死してイギリスの英雄達の埋葬地である)ウェストミンスター修道院行きかだ。」("Before this time tomorrow I shall have gained a peerage or Westminster Abbey.")

※ウェストミンスター修道院では戴冠式などの王室行事が行なわれ、内部の壁と床には歴代の王や女王、国に多大な貢献をした将軍や提督、政治家、医師、科学者などが埋葬されている。多くの日本人も名前を知っているだろうエリザベス1世やウィリアム・ピット(大小)、ネヴィル・チェンバレン、アイザック・ニュートンなども埋葬されている場所である。

 一方その頃、アレクサンドリア沖にいたアレクサンダーはスウィフトシャーに危険に立ち向かうという合図をしてネルソンの元に向かい、スウィフトシャーはアレクサンダーの後に続いた。

フランス艦隊の布陣

1798年8月1日、「ナイルの海戦(アブキール湾の海戦)」におけるフランス艦隊の布陣

※1798年8月1日、「ナイルの海戦(アブキール湾の海戦)」におけるフランス艦隊の布陣。ネルソン戦隊の布陣は推測である。

アブキール湾の深度

※アブキール湾の深度。斜線部が陸地。戦列艦はおよそ白色部のところまで侵入可能、黒色部は侵入不可能。この図と資料にある水深によるとネルソン戦隊の多くは"Inner Shelf"に位置し、一部は"Abu Qir Bay"にかかっていたことがわかる。計測された水深は27 m、25.2 m、23.4 m、19.8 m、18 mであるため、ネルソンは赤丸の地点辺りに布陣していたと考えられる。

 ネルソン戦隊の減速を見たブリュイ提督は「イギリスの艦隊は座礁の危険があるアブキール湾内で夜間に戦闘を行なうのではなく、翌日明るくなってから攻撃を行うつもりである。」と考えた。

 しかし、夜襲の懸念があったため戦闘準備は整えさせていた。

 そして偵察から戻ったブリッグ船ライユールに対し、アブキール島の北東3㎞ほど伸びている浅瀬にイギリス艦隊を誘導するよう命じた。

 ライユールの目的はイギリス艦隊がフランス艦隊左翼側に向かってくる場合、座礁させて少しでも戦力を削ぐことだった。

 フランス軍は艦隊左翼がアブキール島によって守られていると信じていた。

 かなりの距離にあったが、フランス軍はイギリス艦隊がフランス艦隊戦列の先頭(左翼)を追い越すのを防ぐ目的でアブキール島に5~6門の大砲と2門の迫撃砲からなる砲列を形成していた。

 この自信から、フランス艦隊はアブキール島と左翼のゲリエとの間の距離を少し取り過ぎることとなった。

 アブキール島からゲリエまでの距離は1,200トワーズ(約2.4 km)、ゲリエ以降の艦と艦の間の距離は80尋(約133 m)だった。

 2.4 kmという距離はアブキール島に大砲や迫撃砲が配備されていたとしても遠すぎだった。

 左翼はゲリエ、コンケラ、スパルシアーテ、アキロンのそれぞれ74門の大砲を配備した4隻が並び、36門のフリゲート艦シリウーズがゲリエの後方にいた。

 中央には74門のペープル・スーヴェラン、80門のフランクリン、120門のオリエント、80門のトゥノン、40門のフリゲート艦アルテミーズ(Arthémise)、ブリュイ提督の後ろに停泊している2隻の小型コルベット艦であるアレーツ(Alerte)とカストール(Castor)がいた。

 右翼は74門のウールー、74門のティモレオン、ヴィルヌーヴ提督が乗船した80門のギョーム・テル、74門のメルキュール、74門のジェネルーで構成されていた。

 ジェネルーの後ろには、艦隊の中で最も優れた44門のフリゲート艦ディアーヌとジュスティスがそれぞれ停泊していた。

 ブリュイ提督は左翼側はアブキール島の砦に支援されているため、イギリス艦隊は中央、もしくは右翼側から突入してくるだろうと考えていた。

 そのため中央と右翼に大型船(1等戦列艦:オリエント、2等戦列艦:フランクリン、トゥノン、ギョーム・テル)を配置していた。

フランス艦隊の陣容

◎戦列艦

1、Guerrier, ゲリエ, 74門

2、Conquérant, コンケラ, 74門

3、Spartiate, スパルシアーテ, 74門

4、Aquilon, アキロン, 74門

5、Peuple Souverain, ペープル・スーヴェラン, 74門

6、Franklin, フランクリン, シャイラ副司令官が乗船, 80門

7、Orient, オリエント, ブリュイ提督が乗船する旗艦, 120門

8、Tonnant, トゥノン, 80門

9、Heureux, ウールー, 74門

10、Timoleon, ティモレオン, 74門

11、Guillaume Tell, ギョーム・テル, ヴィルヌーヴ副司令官が乗船, 80門

12、Mercure, メルキュール, 74門

13、Généreux, ジェネルー, 74門


 これらの戦列艦はアブキール島から約2.4㎞離れた地点を起点としてこの順番で約133mの間隔で浅瀬に沿うように弓なりに布陣していた。


◎フリゲート艦

14、Serieuse, シリウーズ, 36門

15、Arthémise, アルテミーズ, 40門

16、Diane, ディアーヌ, 44門

17、Justice, ジュスティス, 44門


 シリウーズは左翼、アルテミーズは中央、ディアーヌとジュスティスは右翼に所属しており、戦列艦の後方の浅瀬付近に停泊していた。


◎ブリッグ及び砲艦

18、Alerte, アレーツ, 14門

19、Castor, カストール, 大砲数不明

20、Railleur, ライユール,14門

21、Salamine, サラミーヌ, 18門

22、Hercule, エルクール, 7門


 ライユールはアブキール島から伸びる浅瀬付近、エルクールはシリウーズとともにアブキール要塞付近、アレーツとカストールはフランス艦隊中央の旗艦オリエントの後方にいた、サラミーヌはアブキール要塞付近に避難し、その後、フランス艦隊右翼の指揮下に入った。


参考文献References

・Correspondance de Napoléon Ier: publiée par ordre de l'empereur Napoléon III,第4巻

・Napoleon Ⅰ著「Guerre d'Orient: Campagnes de Égypte et de Syrie, 1798-1799. Mémoires pour servir à l'histoire de Napoléon, dictés par lui-même à Sainte-Hélène, et publiés par le général Bertrand, 第1巻」(1847)

・Nicholas Harris Nicolas著「The Dispatches and Letters of Vice Admiral Lord Viscount Nelson , 第3巻」

・James Stanier Clarke and John M'Arthur著「The Life of Admiral Lord Nelson from His Manuscripts: Volume 2」(1809)

「Histoire des Combats D'Aboukir, De Rrafalgar, De Lissa, Du Cap Finistere, et de plusieurs autres batailles navales, Depuis 1798 Jusqu'en 1813」(1829)

・John Marshall著「Royal Naval Biography,Vol 1. Part 2.」(1823)