シリア戦役 36:第2次アッコ要塞突入作戦と地下での攻防
Second Acre Fortress Assault Operation

第2次アッコ要塞突入計画

1799年4月1日、第2次アッコ要塞突入作戦(概念図)

※1799年4月1日、第2次アッコ要塞突入作戦(概念図)

 1799年4月1日正午、クレベール師団、ボン師団、ランヌ師団から6個中隊づつを分離して突撃部隊が編成された。

 この突撃部隊の指揮はランヌ将軍に一任された。

 突撃部隊の先頭はピエール・ドゥヴォー(Pierre Devaux)大佐が率いて先陣を切ることとなっており、レイニエ師団所属のラグランジュ少将はレイニエ師団から分割された後続の突撃部隊の指揮を執ることとなっていた。

 レイニエ将軍とクレベール将軍は残りの兵力で塹壕を守り、敵の出撃を撃退し、攻撃を防御し、突撃部隊を支援する計画であり、レイニエ将軍は地雷が準備でき次第爆発させ、突破砲台が砲撃を開始するよう命じられていた。

 そして突破が可能であると判断されてから、突撃部隊が突入作戦を開始するのである。

第2次アッコ要塞突入作戦の開始

 その日の夜、カファレッリ将軍は堀の外縁壁(カウンタースケープ)地下を爆破した。

 レイニエ将軍は突破砲台に砲撃を命じ、最近突破砲台に配備された32ポンドと24ポンドのカロネード砲2門は大きな効果を発揮した。

 今回は前回の失敗を改善して爆破したため堀の外縁壁(カウンタースケープ)の一部が崩落し、大きな破口が確認された。

 しかし、アッコ守備隊はすでに対応策を講じており、時間を無駄にすることなく爆弾、砲弾、弾の詰まった手榴弾、タールの樽、束ねられた樽、硫黄のジャケットで覆われた木材、土嚢、鉄の釘などで破口を塞いだため、破口はすぐに通行不能となった。

 突破部隊もアッコ守備隊の攻撃と破口を塞がれた堀の外縁壁(カウンタースケープ)によって前進を阻まれ、撤退を余儀なくされた。

 地下陣地の建造を命じられた25人の兵士たちはこれらの攻撃の最中、穴を掘っていた。

 しかしすぐに火災が襲い、5人が火傷を負い、数人が負傷した。

 さらに砲弾がほぼ尽きかけたため温存する必要があり、フランス軍は攻撃の停止を余儀なくされた。

 堀に残された兵士たちが穴の中に避難して行くのを見たジェザル・アフマド・パシャ軍の兵士達は、少数の兵と小口径の野砲ではアッコを占領することは不可能であることを理解し始めていた。

 そのため勝利を確信して陽気さを取り戻し、フランスの砲兵に向かって「スルタン・セリム、パン、パン、パン」、「ボナパルト、ピン、ピン、ピン」と叫んだ。

※スルタン・セリムとは、オスマン帝国第28代皇帝セリム3世(在位:1789年4月7日~1807年5月29日)のこと。

アッコ要塞からの3度目の出撃と地下での攻防

 堀の外縁壁(カウンタースケープ)を突破できずにいるフランス軍としては、城壁角の塔の地下を爆破して塔を崩す方法にしか希望を見いだせなかった。

 カファレッリ将軍は現在ある地下道に枝道を掘って掘の下に通し、城壁角の塔の下に地雷を埋設する作業を開始した。

 ボナパルトは堀の外縁壁(カウンタースケープ)に空いた破口を塞ぐ木材を燃やすことを目的としてディジョン(Digeon)砲兵隊に2日午前3時からブドウ弾と焼夷弾を10分ごとに交互に発射させた。

 そして燃やすことに成功したら1,000エキュ(écu)を支払うことを約束した。

 これは短期的には掘の障害物を排除することとアッコ守備隊の労力を消費させることが主な目的の陽動であり、本命は城壁角の塔の地下爆破だった。

 一方、4月2日午前3時、ボナパルトはフランス軍左翼のレイニエ師団をランヌ師団に変更し、アッコ守備隊の出撃に備えさせた。

 地下道掘削作業は順調に進んでいるように見えたが、アッコ守備隊はこれに気付き、地雷を奪取して地下道からの攻撃を防ぐために新たに出撃した。

 アッコ守備隊が出撃した先にはランヌ師団が待ち受けていた。

 出撃したアッコ守備隊の部隊は痛撃を受けて前進を阻まれ、損失をともないながら撃退された。

 その後もアッコ守備隊はフランス軍に対抗して地雷埋設作業を妨害するために坑道入り口への出撃を行った。

 地下での戦いは熟練した作業員を有するフランス軍が有利だったが、フランス軍も前進を阻まれて膠着状態が続いた。

 一方、アッコ守備隊はその後も毎晩のように昨晩と同じ叫び声を上げ、フランス軍を挑発し続けたと言われている。