シリア戦役 45:ダマスカス遠征への布石
Preparations for the Damascus expedition

ナポレオンのダマスカス遠征についての考察

 1799年4月17日夜、ボナパルトは現在のフランス軍の立場を熟考した。

 シリア遠征隊13,000人の内、約1,000人がエル・アリシュの戦い、ガザの戦い、ヤッファの戦い、そしてアッコ包囲戦の初期段階で戦死または負傷し、約1,000人がナザレ、シェファ・アルム、ラムレ、ヤッファ、ガザの病院で病に倒れ、約2,000人がカティア、エル・アリシュ、ガザ、ヤッファに駐屯していた。

 アッコにはイギリス軍の支援を受けた8,000人の守備隊がおり、それを包囲するフランス兵は約4,000人だった。

 しかもアブドラ・パシャが指揮するダマスカス連合軍とハッサン・ベイが指揮するロードス島軍は連携する動きを見せており、アッコの港は開かれているためロードス島軍の受け入れが可能な状態だった。

 そしてダマスカス連合軍とナブルス軍の脅威が大きく後退した今、早急に全軍をアッコの包囲陣地に帰還させる必要があると考えられた。

 しかし、いざとなればアッコの包囲に6,000人の兵力を残してクレベール師団の歩兵2,500人、騎兵500騎、大砲12門を包囲以外に振り向けることができるだろう。

 ボナパルトは、人口100,000人のダマスカスにクレベール師団3,000人を派遣するという選択肢を考えた。

 上手くいけばダマスカスの占領は遅くとも翌朝18日~19日には達成できると考えられ、非常に魅力的な選択肢に思えた。

 もしダマスカスを占領することができれば、これまでの損失を補填するために必要な馬、ラクダ、ラバ、皮革、布地、帆布、衣類、火薬、武器、資金が見つかるだろう。

 そして寄付金は700万~800万フラン(francs)は容易に集められるだろう。

 何よりも征服軍にとって重要なのは“ダマスカスの占領がフランス軍にどのような有利な影響をもたらすだろうか?”である。

 恐らくタボル山の戦いはアッコの抵抗によって多少曇ったフランスの評判を回復させるだろう。

 人々がカイロやトリポリ(現在のレバノンのタラーブルス)、アレッポ、アッコに、そして神聖で歴史ある豊かなダマスカスに三色旗がはためいているのを知ったらどうなるだろうか?

 ダマスカスの占領はアッコの占領と同等の効果を生み出すのではないだろうか?

 シリア全土の民族がフランスの旗の下に結集するだろう。

 しかしフランス軍が少数だと分かるとすぐにタボル山の戦いの時のように四方から包囲される恐れがあるため、ボナパルトとしてはダマスカスを占領した時の利益がどれほど魅力的であっても3,000人の兵士を単独で危険にさらすことはできなかった。

 では6,000人のナブルス人の支援があればどうだろうか?

 ボナパルトは4月17日の朝にフランス軍に協力すると約束した各民族の代表者と会談をしていた。

 その会談で、兵力を派遣するのはアッコを占領した後であることが話し合われ、もし派遣するにしても軍を集結させて編成するのに15日はかかることが判明していた。

※恐らくシリアの各民族はジェザル・アフマド・パシャに恐怖を抱いており、彼が排除される(殺される)のを見届けたかったのではないだろうか。

 もし寄付を募ってフランス軍のみでダマスカスに遠征したとしてもその後の作戦に支障をきたし、ダマスカスに住む18,000人ものキリスト教徒を失う可能性もあった。

 そのためこの時点でのフランス軍によるダマスカス遠征の可能性は無くなった。

アッコ占領後のナポレオンの計画の考察

アッコ、ダマスカス、トリポリ、アレッポの位置関係

※アッコ、ダマスカス、トリポリ、アレッポの位置関係

 4月19日に送ったドゼー将軍への書簡には、「6日後にはアッコ要塞を占領する予定である。」と書かれている。

 そしてナポレオンの考察によるとダマスカス遠征はアッコ占領後に行い、ダマスカスを占領した後はアレッポやトリポリへの遠征を考えていることが分かる。

 しかしハッサン・ベイ率いるロードス軍はエジプトへ向かうために準備しており、フランス軍がアッコを占領した後の夏にはエジプトに襲来するだろうことが予想された。

 それに加えてヨーロッパの情勢も不穏であり、一刻も早く本国に帰還する必要があると感じていた。

 そのためナポレオンはアレクサンドリアのマルモン将軍や上エジプトのドゼー将軍に5月中にはエジプトに帰還する予定であることを伝えている。

 この時点でナポレオンは4月25日にアッコ要塞を占領し、5月上旬にアッコから約140㎞のダマスカスを占領し、5月下旬までにアッコから約190㎞のトリポリ(現レバノンのタラーブルス)とダマスカスから約320㎞のアレッポを占領することを計画していたのだろう。

 各都市への歩兵での時間的距離は、アッコからダマスカスまで5日~6日、ダマスカスからアレッポまで12日~13日、ダマスカスからトリポリまで7日~8日、アッコからトリポリまで7日~8日、トリポリからアレッポまで10日~11日である。

 そして地形的にダマスカスの北は不毛な山地が約150㎞離れたホムスまで続いており、東にはシリア砂漠が広がっていた。

 これらのことを考察すると、ナポレオンがトリポリとアレッポを5月中までに占領するためのルートは絞られる。

 1、アッコ、ダマスカス、(ベイルート)、トリポリ、(ホムス)、アレッポの不毛な山地や砂漠を避ける約600㎞のルート。

 2、第1軍はアッコ、ダマスカス、(ホムス)、アレッポの不毛な山地を通る約480㎞のルート、第2軍はアッコ、(ベイルート)、トリポリ、(タルトゥース)、(ラタキア)、アレッポの海岸沿いを進む約500㎞のルート。

 これらのルートは多少の変化があるが、大きくは変わらない。

 1は軍がまとまって動くが、2は分進合撃である。

 分進合撃は約20日(戦闘含めず)で移動できるが各個撃破される危険があり、まとまって動く場合は約25日(戦闘含めず)かかることになる。

 アッコ占領後に動員できるフランス軍の兵力は推定8,000人であり、フランス兵は補充されないため戦闘を行い要地や都市を制圧するごとにその兵力は減少していくことになる。

 しかし、ナポレオンは地元の各部族を兵士として活用することを考えていたため領地拡大によるフランス軍動員兵力の減少スピードは緩やかなものになり、戦闘面においてもこれまでと比較してフランス軍の負担は減少していくことが予想される。

 加えてナポレオンが思い描くように、アッコだけでなくダマスカスにもトリコロール(フランスの三色旗)がはためいているのを見た周辺国や部族がフランスに協力し、フランス軍の接近に恐れをなして戦うことなく降伏する都市が出てくるだろうことも考えられる。

 これらのことから5月中のトリポリ、アレッポの占領は計算上不可能ではないことが分かる。

 そしてナポレオンは4月19日付の書簡で財務官プルシエグ(Poussielgue)に「アッコを5日か6日後に占領されることが計算できます。その後すぐにカイロへ出発します。新しい部屋に家具を揃えて頂きたいです。私は手紙を受け取ってから10日から15日後にはカイロに到着する予定なので、あなたの書簡にある様々な事柄に詳細に返信する必要はないと考えています。」と返信しているため、ダマスカスから先の遠征はクレベール将軍かレイニエ将軍に任せるのだろうことが想像できる。

ナザレでの一夜

 4月18日、ボナパルトはボン師団とともにヌール近くの野営地を出発してナザレに向かった。

 ナザレは旧約聖書や新約聖書の歴史的な出来事で有名な聖地だった。

 兵士たちは『ユディト記』に記されているホロフェルネスが首をはねられた場所やイエスが最初の奇跡として水を良いぶどう酒に変えたと言われている「カナの婚宴」の場所を興味深く訪れた。

 ヨルダン川は幅が広く流れは速く、ヨーロッパのライン川やローヌ川のようだった。

 兵士たちは、エーヌ川やコンピエーニュのオワーズ川よりもほんの少ししか水が流れていないことに非常に驚いた。

 ナザレの修道院に入ると、軍はヨーロッパの教会に入るのだと思った。

 教会は美しく、すべてのロウソクに火が灯され、聖体が公開され、軍はテ・デウム(賛美歌を歌う場)に参加した。

 非常に優れたオルガン奏者がおり、修道士はスペイン人とイタリア人が多く、フランス人は1人だけだった。

 修道士たちは聖母マリアが天使ガブリエルの訪問を受けた受胎告知の洞窟を案内した。

 修道院はとても美しく、十分な宿泊場所とベッドが用意されていた。

 負傷兵はそこに収容され、神父たちが彼らの世話をした。

 そして地下室には非常に良質のワインが貯蔵されていた。

 この日、ボナパルトはナザレの修道院で眠った。

ダマスカス遠征への布石

 4月19日、ボナパルトは、ヨルダン川の監視にクレベール師団(ジュノー旅団含む)とミュラ旅団の歩兵1,000人を残し、側近とボン師団、そしてミュラ将軍指揮下の騎兵隊を率いてアッコの野営地に帰還した。

 4月15日にアッコを離れてから5日が経過していた。

 タボル山の戦いは期待通りの効果をもたらした。

 ドゥルーズ派、マロン派、シリアのキリスト教徒の代理人たちがフランス軍の元に集結した。

 そしてドゥルーズ派とマロン派の代表者と秘密協定を締結した。

 協定では6,000人のドゥルーズ派と6,000人のマロン派を雇い、彼らが定めたリーダーに指揮を委ね、ダマスカスでフランス軍に合流することが合意された。

※セントヘレナのナポレオンは4月18日にナザレの修道院で眠り、19日にアッコに移動したと主張している。しかしナポレオン1世書簡集では17日にはすでにアッコ前でナブルスのシェイク(長老)であるジェラール(Gherar)宛に書簡を送っている。ただ、事実がどうであったにせよ大局には影響しない。

※この秘密協定でダマスカス侵攻が示唆されているため、ナポレオンはアッコ占領後にダマスカス遠征をするつもりだったことがわかる。

ペレー戦隊による攪乱作戦の開始

 アッコに帰還したボナパルトは「ペレー戦隊がヤッファとタントゥーラで大砲と物資を降ろした。」との知らせを受け取った。

※タントゥーラ(Tantourah)は現在のドル(Dor)。

 ペレー少将は4月15日にヤッファ港で大砲と物資を降ろした後、ヤッファ港を出港して北上し、海上からカルメル山を認識し、タントゥーラの小さな入り江に大口径砲6門と大量の軍需品および食糧を上陸させていた。

 そして輸送任務を完了したペレー戦隊は次の命令を待つためにヤッファ沖に停泊していたのである。

 そのためボナパルトはすぐにペレー少将に「イギリスの提督(シドニー・スミス将軍のこと)に見つからないようにサン=ジャン=ダクル(アッコのこと)に接近するよう」命じた。

 この命令はロードス島やキプロス島、トリポリ(現在のレバノンのタラーブルス)などの他地域とアッコとの連絡線をかく乱することが目的だった。

 ペレー戦隊は作戦遂行のためにヤッファ沖を出発し、シリアへ向かう船を阻止するためにロードス島とアッコの間を巡航した。

遮断されたヤッファとの連絡線の回復

 ペレー将軍が輸送任務を果たした一方で、カルメル山ではアラブ人の一団がフランス軍の連絡線を妨害しており、このままでは大砲をアッコの野営地に運ぶことはできなかった。

 4月19日、そのためルトゥルク将軍率いる300騎の騎兵隊がアッコの野営地を出発し、連絡線を妨害していたアラブ人を奇襲し、約60人を殺害した。

 そして800頭の牛を奪い取って軍の食糧として利用したが、24ポンド砲の到着は遅れることとなった。