シリア戦役 40:アブドラ・パシャ率いるダマスカス連合軍の襲来
The advance of the Damascus coalition forces led by Abdullah Pasha
クレベール師団所属の兵士達による略奪とその対応
1799年4月8日、地元民たちがフランス陣地近くの市場で販売するための食糧をクレベール師団の兵士たちが奪い去ったという苦情が本部にもたらされた。
そのため数日前から市場にパンが無かったのであるが、ボナパルトはその対策として兵士達に野営地から出ないよう命じ、護送隊を強化した。
ボナパルトは地元民の協力無くしてアッコの継続的な包囲やその後の兵站は成り立たないと考えていたが、クレベール師団の兵士達にまでは理解されていなかったのである。
ナザレでの戦闘

※1799年4月8日、ナザレでの戦闘。実際の戦闘はナザレではなくカナ周辺地域で行われている。
4月8日、ナザレを占領していたジュノー将軍は、ダマスカス連合軍左翼の先遣隊3,000騎がヨルダン川を渡ったことを知った。
ジュノー将軍は本部に伝令を派遣した後、300人の兵士を率いてルビア(Loubia)へ向かった。
※ベルティエの回想録では「(ジュノー)将軍は第20軽歩兵連隊の一部、第19軽歩兵連隊の3個中隊(約350名)、そして各軍団から集めた160頭の騎兵からなる分遣隊を率いて偵察に出発した。」とある。
※ルビア(Loubia)とは現在のラビ(Lavi)南西の高地の麓にかつてあった村のこと。
この時アブドラ・パシャ率いる左翼はティベリアス湖のほとりにあるティベリアを占領し、その先遣隊はルビアを占領していた。
ジュノー将軍はカナ(Kanna)からほど近い地点でルビア高地の頂上に敵がいるのを確認した。
※“Kanna”は “Canna” や “Cana” とも表記される。
ジュノーは進軍を続け、山を迂回すると平原に出た。
するとそこで3,000騎の騎兵に包囲され、攻撃されようとした。
ダマスカス連合軍左翼の先遣隊3,000騎は僅か300人のジュノー旅団に襲い掛かったが、ジュノーは勇気を示した。
そして兵士たちも勇敢な指揮官に相応しい力を発揮し、ダマスカス連合軍左翼の先遣隊の旗5旈を放棄させた。
ジュノー将軍は戦いをやめることなく、攻撃を受けることもなく、次々とナザレの高地を獲得した。
そして戦場から2リーグ(約8㎞)離れたカナ(Kanna)まで追跡した。
この戦闘で、ダマスカス連合軍左翼の先遣隊の損害は5旈の旗の他に、500人~600人の死傷者を出したと言われている。
シェレール将軍によるマントヴァ要塞の強化
4月8日、イタリア方面ではスヴォーロフ元帥率いる約30,000人のロシア軍と合流を果たした約40,000人のオーストリア軍がマントヴァ要塞の近郊に到着した。
これらの軍と側面部隊であるヴィカソヴィッチ旅団を麾下に置くローゼンベルク師団の合計約80,000人、そしてクレナウ旅団がスヴォーロフ元帥指揮下に置かれていた。
この時、シェレール将軍率いるイタリア方面軍の兵力はヴェローナの戦いとマニャーノの戦いで大幅に減少し士気も低下していた。
シェレール将軍はマントヴァ要塞に6,600人を入城させ、元からいた要塞守備隊と合わせて約10,000人の軍を形成し、軍が1年以上耐えることのできる食糧と弾薬を運び入れた。
その結果、イタリア方面軍の実働戦力は28,000人、大砲60門となった。
イタリア方面軍のオリオ川への撤退

※ペスキエーラ要塞及びマントヴァ要塞とオリオ川の位置関係
フランス軍がマントヴァ要塞に部隊を入城させている時、スヴォーロフ元帥はクレナウ旅団にポー河を渡らせポー河の両岸で民衆を蜂起させていた。
スヴォーロフ元帥の目的はイタリア方面軍とナポリ方面軍との連絡を妨害することだった。
このことを知ったシェレール将軍は、モンリシャール将軍に3個歩兵大隊、2個ピエモンテ騎兵連隊、1個騎兵連隊を率いさせ、民衆の蜂起を鎮圧するためにフェラーラに向かわせた。
加えて北側ではアルプス山脈方面のヴィカソヴィッチ旅団がブレシアへ接近し後方連絡線を脅かそうとしている状況だった。
そのためスヴォーロフ元帥率いる軍の接近を見たシェレール将軍は4月9日夜にオリオ(Oglio)川への撤退を決意し、マントヴァ要塞に残した6,600人の他、実働部隊からペスキエーラ要塞に約6,000人、その他の小さな拠点(恐らくゴーイトやボルゲットなどの渡河地点)に合計数千人の兵力を残してミンチョ川を後にした。
ミンチョ川を離れたイタリア方面軍の兵力は20,000人を下回っていたと言われている。
シェレール将軍としてはオリオ川で防衛線を構築して寸土を争って時間を稼ぎ、本国から許可が下り次第、マクドナル将軍率いるナポリ方面軍と合流する計画だった。
しかしロンバルディア平原を流れるオリオ川はイーゼオ湖からポー河まで約120㎞あるため防衛線は長くなり、浅瀬が多いため防衛するには不向きな川だった。
フランス軍のミンチョ川からの撤退を知ったスヴォーロフ元帥はこれらペスキエーラ要塞とマントヴァ要塞の2大要塞を攻囲せず、それぞれ僅か数百人の兵力で封鎖するに留め、これら2つの要塞の間でミンチョ川を渡河してフランス軍の追跡を開始した。
ダマスカス連合軍の襲来

※ダマスカスとツファット、ナザレ、アッコの位置関係
4月9日、ボナパルトはダヘルの息子(アッバース・ダヘルのこと)の代理人からアブドラ・パシャ率いるダマスカス連合軍がダマスカスを出発し、その兵力は数え切れないほど多いことを知らされた。
※ベルティエ将軍の回想録ではダヘルの息子の代理人ではなく、ダマスカスのキリスト教徒となっている。
さらにジュノー将軍からアブドラ・パシャ軍の先遣隊がヨルダン川を渡ったことを知らされたボナパルトは、すぐにクレベール師団をシェファ・アムルを通るルートでナザレへ派遣してジュノー旅団を支援するよう命じた。
ダマスカスからティベリアス湖北のベナト・ヤコブ橋まで約80㎞(歩兵でおよそ3~4日)、ティベリアス湖南のジェスル・エル・マジャミ橋まで約130㎞(歩兵でおよそ4~6日)の距離があったがアブドラ・パシャはティベリアス湖南のヨルダン川方面の主力軍すべてを騎兵で構成していたため、僅かな日数でヨルダン川を渡ることに成功していたのである。
クレベール師団の目的はジュノー旅団と協力して、ダマスカス側から、あるいはナブルス方向にあるジェニン(Genin)と呼ばれる方面から集まってきた集団を解散させることだった。
ナザレはナブルス軍とダマスカス連合軍が合流する重要地点であり、ダマスカス連合軍が動き出した今、ナザレ周辺地域の防衛は喫緊の課題だった。
歩兵と騎兵の合計が500人程度のジュノー旅団のみではダマスカス連合軍及びナブルス軍と相対してナザレ周辺地域を防衛するのは困難であることは目に見えていたため、ナザレ地域を強化したのである。
この日、塹壕にいた義足の将軍であるカファレッリ工兵中将の右腕に砲弾が当たり、切断しなければならないほどの重傷を負った。
カファレッリ将軍はナポレオンが尊敬するほど優秀な工兵将校であり、その戦線離脱はフランス軍にとって大きな痛手となった。
1799年4月初旬時点でのフランスのシリア遠征軍の状況
フランスのシリア遠征軍軍は危険な状況に立たされていた。
シリア遠征隊13,000人の内、約1,000人がエル・アリシュの戦い、ガザの戦い、ヤッファの戦い、そしてアッコ包囲戦の初期段階で戦死または負傷し、約1,000人がナザレ、シェファ・アルム、ラムレ、ヤッファ、ガザの病院で病に倒れ、約2,000人がカティア、エル・アリシュ、ガザ、ヤッファに駐屯していた。
加えてアッコ包囲戦では物資集積所や野営地を防衛するために5,000人を要した。
そのためボナパルトはアッコを包囲しつつ歩兵と騎兵の合計約33,000人で構成されるダマスカス連合軍と約10,000人の歩兵で構成されるナブルス軍に対し、僅か4,000人の兵力で対処せざるを得ない状況を余儀なくされていた。
このことはダマスカス連合軍の到来を期待しているアッコ要塞内のジェザル・アフマド・パシャやシドニー・スミス将軍には知られないようにし、それぞれ個別に対応する必要があった。
参謀総長であるベルティエ将軍は大惨事が起こることを想定し、ナザレやシェファ・アムル、ハイファの病院、アッコの救急車、そして重い荷物、捕虜、そして水兵たちの言葉によれば“もはや戦力を持たない軍を困惑させる1,000トン以上のあらゆる物資”をヤッファに避難させた。
ジェザル・アフマド・パシャの敵対者の末路
4月7日に行われたアッコ要塞からの出撃の後、捕らえた脱走兵たちに負傷して捕虜となったフランス兵がどうなったかを尋ねた。
すると彼らは「ジェザル・アフマド・パシャが兵士たちの身体を切り刻んだ後、血まみれの頭と脈打つ手足を街中で見せしめにするよう命じた。」と答えた。
4月7日の数日後、兵士たちは岸辺に大量の袋があることに気付いて開けてみた。
そこには2人ずつ縛られた死体があった。
脱走兵たちに尋問したところ、牢獄に収監されていた400人以上のキリスト教徒がジェザル・アフマド・パシャの命令で連行され、2人ずつ縛られ、袋に縫い込まれて水に投げ込まれたことが判明した。
※これらのことに関してベルティエは、ジェザル・アフマド・パシャの行為をその文脈から「名誉と人道の原則に反する行為」、「野蛮で残酷な行為」と非難している。確かにジェザル・アフマド・パシャの殺害方法は恐ろしく残酷であるが、フランス軍も村人たちを殺害して村を焼いたり、ヤッファで虐殺したりしている。そのためフランス軍も「名誉と人道の原則に反する行為」、「野蛮で残酷な行為」を行っていることには注意しなければならない。
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