シリア戦役 46:バニ・アディの戦いとダヴー将軍のカイロへの帰還【ドゼー将軍の上エジプト征服】
General Davout's return to Cairo
バニ・アディへの抵抗軍の集結
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※エジプト遠征時のダヴー将軍。作者不明。1820年代。"
1799年4月6日のギルガでの戦闘後、何も活躍できなかったダヴー将軍は砂漠へと逃亡したヤンブー守備隊の残骸を追跡していた。
しかし4月12日のジュヘイミでの戦闘後ヤンブー守備隊は壊滅されたようであり、ダヴー将軍はアシュートに向かった。
ダヴーは数日間アシュートに滞在していたが、ジュヘイミから逃げ出した少数の人々がどうなったのかは知らなかった。
すると突然、アフリカの奥地から来たマムルーク、アラブ人、ダルフール(Darfour)人の隊商から「エジプトで最も勇敢な住民が住むとされる大きく立派な村バニ・アディ(Bani Adi)に(抵抗軍が)集結している」との報告がダヴー将軍の元に届けられた。
※ダルフール(Darfour)とはエジプトの南にあるスーダン西部地域一帯のことである。
※バニ・アディ(Bani Adi)とはアシュートの北西約25㎞のところに位置する現在のバニ・アディ・アル・バハレイヤ(Bani Adi Al Baharyyah)だと考えられる。
さらにムラード・ベイがエル・ロウ(ハルガ・オアシス周辺地域)からバニ・アディに向かっており、この部隊の指揮を執ることとなっているとの噂もあった。
ソウハマの戦いの翌日の3月5日にドゼーに追撃されてエル・ロウに逃れたムラード・ベイだったが、そこで兵士たちを養うことができなかったためオアシスを去ることを余儀なくされていたのである。
ダヴーはピノン将軍に代わってアシュート州の指揮権を得ると直ちにバニ・アディ村への進軍の準備を開始し、第88竜騎兵連隊と第15竜騎兵連隊を加えて部隊を増強した。
そしてピノン将軍を連れ、シリー(Silly)暫定少将にアシュート州の指揮を任せてアシュートを出発した。
バニ・アディの戦い

※1799年4月18日、バニ・アディの戦い
4月18日、ダヴー将軍は抵抗軍で覆われたバニ・アディの近くに到着した。
砂漠に面した村の側面は、多数の騎兵、マムルーク軍、アラブ人、農民によって守られていた。
このバニ・アディ村のマムルーク軍はムラード・ベイの前哨部隊であり、抵抗軍は後にバニ・アディに到着するであろうムラード・ベイの指揮下にあった。
ダヴーは歩兵を2個縦隊に編成し、一方を村に移動させ、もう一方に村の周囲を掃討させようとした。
後者の前方にはピノン将軍指揮下の騎兵隊が配置されていたが、とある家屋の近くを通過しようとしたとき、ピノン将軍は銃撃を受けて死亡した。
そのためダヴーはすぐに副官のラバッセをピノン騎兵隊の指揮官に任じた。
騎兵隊は砂漠でマムルーク軍を目撃し、歩兵隊の1つがそこに向かった。
騎兵隊が目撃したマムルークはムラード・ベイの前衛部隊だった。
ムラード・ベイの前衛はフランス騎兵隊を見るとすぐに(ハルガ・オアシスに)帰還するよう伝えた。
アラブ人と馬に乗った農民たちはすでに諦めていた。
歩兵と騎兵は突撃のために戻り、バニ・アディ村はすぐに包囲された。
歩兵が侵入し、すべての家屋から銃撃があったにもかかわらず、フランス軍は村を完全に制圧した。
ヤンブー守備隊の生き残りとモーグラビン人、ダルフール人、下馬したマムルーク、バニ・アディの住民の計2,000人が村の中に残っており、彼らはすべて殺害された。
そして一瞬にしてバニ・アディ村は灰となり、廃墟だけが残された。
戦いの後、大量の戦利品が残されていたと言われている。
ミニヤーでの反乱

※1799年4月19日、ミニヤーでの反乱
ダヴー将軍がバニ・アディを破壊している間、バニ・アディからの逃亡者の一団は煙を上げる廃墟の中から逃げ出し、ナイル川に沿って走り、「ついに異教徒を根絶した!」と宣言しながら、住民に武器を取るよう呼びかけ続けた。
ドゼー将軍の報告によると、ベニ・スエフ州では上エジプトと同様に軍隊がナイル川を下ってくるのは他の軍隊が壊滅したためであると考えられていた。
4月19日、ミニヤー周辺の住民たちが反乱を起こし、バニ・アディから逃れてきた残党とともにミニヤーを脅かした。
ミニヤー守備隊を指揮するデトリー(Détrée)旅団長は兵士の数が少なかったため増援を求めた。
しかし反乱軍は弱く、デトリーは精力的に攻撃し、反乱軍は撤退を余儀なくされた。
ダヴー将軍はすぐにミニヤーに向かって進軍したが、到着した時にはすでに戦いは終わっていた。
アブー・ジルジの虐殺

※1799年4月21日、アブー・ジルジの虐殺
ヤンブー守備隊の生き残りはさらに北上し、ベニ・スエフ周辺でも「ついに異教徒を根絶した!」と宣言しながら、住民に武器を取るよう呼びかけ続けていた。
そのためベニ・スエフ周辺の住民も反乱を起こしていた。
ダヴー将軍はすぐにベニ・スエフに向かった。
4月21日、ベニ・スエフへの途上にあるアブー・ジルジに到着した。
しかし、フランス軍が敗北したと思っているアブー・ジルジの民衆に侮辱されるという出来事が発生した。
ダヴー将軍は村人に服従するよう呼びかけ和平の言葉を述べたが村人たちは応じなかった。
ダヴー将軍はその罰として村を包囲し、村のすべてを火と剣によって滅ぼすよう命じた。
この事件でアブー・ジルジに住む1,000人の人々が死亡した。
その後、ダヴー将軍はベニ・スエフへの旅を続けた。
ダヴー将軍のカイロへの帰還
ベニ・スエフに到着したダヴー将軍だったが敵の数は心配するほどでもなく、すでにナイル川を渡って逃亡していた。
ダヴー将軍が追撃準備をしてるとき、ドゥガ将軍からカイロに行くよう命令を受けた。
そのためダヴー将軍は追撃を諦めてカイロへ向かった。
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