シリア戦役 50:カファレッリ将軍とフェリポー大佐の死
The deaths of General Caffarelli and Colonel Phélippeaux
      カファレッリ将軍の死
 
        ※カファレッリ将軍の肖像。アンドレ・ドゥテルテ(André Dutertre)画。1800年代
1799年4月27日、モロー将軍率いるイタリア方面軍がアッダ川で戦っている時、アッコでカファレッリ工兵中将が死亡した。
外科医ラレーによって切断された右腕の回復は順調に見え、残された左手で筆記の練習を始めたばかりだった。
しかし切断した右腕の傷の悪化(壊疽)が原因で死を余儀なくされたのである。
カファレッリ将軍はフランス学士院の会員であり、エジプト研究所の学術研究に積極的に参加する優秀な男だった。
ナポレオンはカファレッリを特に高く評価していた。
当時の軍議でナポレオンが「我々全員がカファレッリ将軍の死を悼む。軍は最も勇敢な指導者の一人を、エジプトは立法者の一人を、フランスは最も優れた国民の一人を、そして科学は著名な学者を失ったのだ。」と発言したことが議事録に記されている。
兵士たちにも人気があり、兵士たちは彼を「松葉杖の父」や「木の脚」と親しみを込めて呼んでいた。
後にナポレオンは「少なくともカファレッリは理論屋ではない。善良な人物であり、勇敢な兵士であり、忠誠心も高く、良き市民でもあった。」と評した。
遺体はアッコの地に埋葬された。
その墓はイスラム教徒の墓とは異なる様式で作られ、荒らされることを考慮して墓碑銘は刻まれなかったと言われている。
※カファレッリ将軍の墓は1969年に他の同じ様式の墓と一緒にアッコの大学周辺地域で発見された。どこの大学かは不明だが、恐らく現在の西ガリラヤ大学(Western Galilee College)だろう。
第2防衛線の強化とジェザル・アフマド・パシャの反撃開始
 
        ※1799年4月28日~30日、海の門前のレダンと塹壕線の位置関係
4月最後の週、包囲された側は海の門の前とパシャの宮殿の前に練兵場の形をした2つの大きなレダンの建設を完了した。
※1799年4月最後の週は、28日(日) ~ 30日(火)までの3日間である。
アッコ守備隊は休みなく働き、騎兵を動員し、兵士たちを駆り立てて24ポンド砲を配備して後方(海の門前のレダン)の砲火を増強した。
そしてそこから塹壕を伸ばし、マスケット銃と大砲の砲火によって側面からの攻撃に対して有利に防衛できる態勢を整えた。
フランス軍はレダンの砲台に対抗するためにより高い位置に砲台を設置する必要があった。
しかしアッコ守備隊が反撃態勢を整える方が早かった。
アッコ守備隊は遂にフランス軍の塹壕に向かって反撃を開始したのである。
アッコ要塞からの5度目の出撃
塔と高い城壁からの砲火に支援され、そこから包囲軍に突撃したアッコ守備隊は容易に塹壕にたどり着いた。
アッコ守備隊の攻撃を沈黙させ、奪われた塹壕を再占領するためには大砲と弾薬の圧倒的な優位性が必要だったが、フランス軍はそれらを持ち合わせてはいなかった。
フランス軍は驚くべき勇気の末、何とかアッコ守備隊の撃退に成功した。
しかしフランス軍は塹壕に留まるための十分な戦力が不足しており、アッコ守備隊が再び攻撃を仕掛けてくるのもそう長くはないと考えられた。
この戦闘によりアッコ守備隊は約200人の兵士を失ったと言われている。
4月末時点でのヨーロッパ戦線の状況
4月末時点でヨーロッパのフランス軍は悲惨な状況だった。
ドナウ軍とオブザベーション軍はカール大公によってライン川に押しやられ、イタリア方面軍はミラノの街を失っていた。
ヨーロッパでの戦いは大国ロシアの参戦によりフランスにとって圧倒的不利な状況となっていたのである。
大局的に見るとフランスにとってエジプトやシリアでの戦いは無駄であり、東洋軍をエジプトから撤退させてフランスに戻す必要があった。
しかし、地中海はイギリスによって支配されており、エジプトとシリアのフランス軍が本国に戻るのは困難だと考えられた。
フェリポー大佐の死
 
        ※参考:ギスラン ・ド・ディースバッハ( Ghislain de Diesbach)、ロバート・グルーヴェル(Robert Grouvel)著「Échec à Bonaparte: Louis-Edmond de Phélippeaux, 1767-1799」(1979年出版)の表紙絵。左がフェリポー大佐、右がナポレオン。表紙絵上部には「この忌々しい亡命者は私が世界の様相を変えるのを妨げた。 ナポレオン(Ce maudit emigre ma empeche de changer la face du monde. Napoleon)」と書かれている。
5月1日、イギリスのフランス人工兵技師であるフェリポー(Louis-Edmond Antoine Le Picard de Phélippeaux)大佐が熱を出して倒れた。
フェリポーは弱気になったジェザル・アフマド・パシャを奮起させた後、防衛施設の建設を精力的に行ったため日射病(熱中症)にかかったのである。
※日射病に罹ったというのはナポレオンが主張していることである。恐らく熱病(ペスト)だったのではないかと考えられる。
その後、彼は5月20日に死亡した。
フェリポーはパリの高等士官学校で教育を受けていた。
ナポレオンとフェリポーは同じ日にラプラス試験官による試験を受け、14年前の同じ年に砲兵隊に入隊した。
※1785年9月、2人は卒業試験を合格した。ナポレオン16歳、フェリポー18歳だった。
パリの高等士官学校でナポレオンとフェリポーが喧嘩となり、その仲裁で割って入ったペカデュク(Pierre-Marie-Auguste Picot de Peccaduc)曹長が両者から蹴りを喰らったという伝説が残されている。
当時、極貧生活を送っていたナポレオンは身長約168㎝(5 pieds 2 pouces)の瘦せ型、対するフェリポーは身長約157㎝(4 pieds 10 pouces)の頑丈な体格だったと言われている。
フェリポー大佐の死後、ダグラス少佐が後任となった。
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