シリア戦役 41:ヤンブー守備隊殲滅のための一連の戦い(バルディス、ギルガ、ジュヘイミの戦い)【ドゼー将軍の上エジプト征服】
Battle of Bardis, Girga, and Gehemi

マラウィ周辺の反乱軍掃討作戦

1799年4月上旬、ピノン将軍によるマラウィ周辺地域のベドウィン掃討

※1799年4月上旬、ピノン将軍によるマラウィ周辺地域のベドウィン掃討

 1799年4月3日、ダヴー将軍がヤンブー守備隊殲滅命令を受けてケナを出発している頃、アシュート州を指揮するピノン将軍がマラウィ(Mallawi)の周囲を騒がせているベドウィンを追い詰めるために出撃しようとしていた。

 そして、その間の留守を一任するためにタハタ(Tahta)にいるラサール将軍を呼び寄せた。

 ピノン将軍はアシュートを出発し、ラサール将軍はアシュートへ向かった。

バルディスの戦い

1799年4月5日、バルディスの戦い

※1799年4月5日、バルディスの戦い

 4月5日午後、250人を率いてギルガを出発したモランド旅団長がヤンブー守備隊のいるバルディス(Bardis)を視界に収めた。

 フランス軍の接近を知ったヤンブー守備隊、多くの農民、マムルーク、ベドウィンは大声で叫びながらすぐにバルディスから出撃した。

 モランドは彼らにマスケット銃での一斉射撃を行なった。

 ヤンブー守備隊等はそれに反応し、少し後退した。

 敵の数は相当なものであり、モランドの部隊の地の利は良かったものの兵力が少なかったため、その場所に留まることを決断した。

 30分後、モランドは再び襲撃され、先ほどと同じように一斉射撃を行なって敵を迎えた。

 彼らは多くの死体を広場に残し、夜の闇に紛れて逃げ去った。

 敵の逃亡を知ったモランドはギルガに戻り、防衛施設をカバーした。

ギルガの戦い

 4月6日、新たな戦いが繰り広げられた。

 ヤンブー守備隊がギルガに向かって進軍し、町への侵入を成功させた。

※どの方向からギルガに向かって進軍したのかは不明であるが、恐らく西の砂漠方面からだろう。

 ヤンブー守備隊が市場を略奪しようとしている間、モランドは2個縦隊を形成し、1個縦隊を町の内部に、もう1個縦隊を町の外に向かわせた。

 この作戦は成功し、町にいたヤンブー守備隊は皆殺しにされ、町の外にいた者たちは砂漠へと逃亡して行った。

 この2日間でヤンブー守備隊は200人の死者を出し、モランド旅団長はいくつかの怪我を負ったと言われている。

ダヴー騎兵隊のギルガへの到着

 4月6日、ヤンブー守備隊がバルディスで敗北したことを知ったダヴー将軍はナイル川を渡った。

 その後、ギルガに向かったダヴー将軍だったが、ギルガにたどり着いた頃にはすでに戦闘は終わっていた。

 そのためモランド旅団長がギルガから送った戦勝報告を、ギルガに到着したばかりのダヴー将軍が受け取ることとなった。

ジュヘイミの戦い

1799年4月12日、ジュヘイミの戦い

※1799年4月12日、ジュヘイミの戦い

 4月8日、マラウィ周辺の掃討を終わらせたピノン将軍がアシュートに帰還した。

 そしてその日の内にギルガで敗北したヤンブー守備隊の生き残りがタハタを襲撃して来たこと、そしてヤンブー守備隊の指導者は依然としてエジプト内で反乱を起こさせようとしていることを知らされた。

 ピノン将軍の代わりにアシュートを守っていたラサール将軍はすぐにタハタに帰還した。

 4月10日、ラサール将軍は1個大隊と1個騎兵連隊、大砲1門を率いてタハタを出撃した。

 4月12日午後1時、ラサール将軍はヤンブー守備隊の生き残りがいる非常に大きな村であるジュヘイミ(Gehemi)の近くに到着した。

※ジュヘイミ(Gehemi)とはタハタの南約9㎞のところに位置する現在のジュハイナ(Geheinah)だと考えられる。

 そしてすぐに村を騎兵連隊で包囲し、歩兵とともにまっすぐに進軍した。

 ヤンブー守備隊はマスケット銃の一斉射撃を行い、彼らが先ほど銃眼を空けたばかりの二重壁の囲いの中に入って防御した。

 砲撃や銃撃の中、ヤンブー守備隊は数時間抵抗したがついに打ち負かされた。

 殺されなかった者はすぐに逃亡したが、村を包囲していた騎兵連隊によって大部分が切り刻まれた。

 しかし、樹木や庭園のおかげで、100~200 の人々が砂漠への逃亡を成功させた。

 この戦闘でヤンブー守備隊は約300人の死者を出し、その中にはハッサンの後継者である甥も含まれていたと言われている。