シリア戦役 42:カナでの戦闘とアブドラ・パシャ率いるダマスカス連合軍のエスドラエロン平原への進出
Abdullah Pasha's allied forces advance into the Plain of Esdraelon
カナでの戦闘(シャジャラでの戦闘)

※1799年4月11日、カナでの戦闘(シャジャラでの戦闘)
1799年4月9日、クレベール師団はサフォーレ近郊のベダウィ(Bedawi)に野営した。
翌10日、クレベール将軍は補給のためにナザレへ向かいジュノー旅団との合流を果たした。
そしてダマスカス連合軍左翼がルビア(Loubia)の野営地から撤退していないという情報を得たクレベール将軍は、4月11日にベダウィの野営地からルビアに向かって進軍し、攻撃することを決断した。
ルビアから4分の1リーグ(約1㎞)、カナ(Canna)から1リーグ半(約6㎞)ほど離れたシャジャラ(Chagarah)にようやく到着した頃、7,000騎に補強されたダマスカス連合軍左翼の先遣隊はルビアの高地から下りてきてカナ平野に姿を現した。
※シャジャラ(Chagarah)村は1948年までかつて存在したアル・シャジャラ(Al Shajara)村のこと。
そしてクレベール師団はすぐに4,000騎の騎兵と500人~600人の歩兵に包囲され、突撃を受けた。
クレベール将軍は直ちに2個方陣を形成して対抗しようとした。
しかし包囲される際、騎兵と物資を保管していたシャジャラの野営地が襲われ、野営地は占領された。
これによりクレベール師団は予備の弾薬や食糧を失った。
その後、2個方陣を形成したクレベール師団は次第に優勢となり、ダマスカス連合軍左翼の先遣隊は戦場を放棄し、ヨルダン川に向かって無秩序に撤退した。
ベルティエ曰く「もし師団が弾薬を奪われていなければ、クレベールはそこで追撃していただろう。」
戦いの後、物資不足の師団を率いるクレベール将軍はアッコから孤立することを恐れ、翌12日、サフォーレ(Safoureh)とナザレの高台に陣地を戻し、本部に書簡を送った。
一方、ダマスカス連合軍左翼の先遣隊はシャジャラでの戦闘後、一部はティベリア、一部はジェスル・エル・マジャミ橋、一部はバザール(Bazar)へと撤退して行った。
ダマスカス連合軍左翼のエスドラエロン平原への進軍

※1799年4月13日、ダマスカス連合軍左翼のバザールへの集結とエスドラエロン平原への出発
4月11日のカナでの戦闘後、バザールはダマスカス連合軍左翼の集結の地となった。
12日にはダマスカス連合軍左翼の主力がバザールへの集結を完了し、ルビアでは後衛部隊が右翼及びティベリア、そしてダマスカスとの連絡線を維持していた。
クレベールからボナパルトへの書簡ではこの軍勢は15,000人~18,000人だったとされ、現地住民の話では40,000人~50,000人とされていた。
4月13日、ダマスカス連合軍左翼はバザールを出発し、タボル山を迂回するルートでエスドラエロン平原へと向かった。
そしてルビアの後衛部隊をバザールに呼び寄せた。
アブドラ・パシャ軍のおおよその全貌の判明

※1799年4月中旬、ナポレオン視点でのアブドラ・パシャ軍のおおよその全貌
ボナパルトは、ツファットを指揮するシモン大尉から「4月13日にアブドラ・パシャの息子が指揮する8,000人のダマスカス連合軍右翼がベナト・ヤコブ橋を渡り、その内の騎兵約1,200騎がツファット砦を包囲したこと」、「敵は突撃を試みたが大きな損害を被って撃退されたこと」、「敵はガリラヤ地域に分散したこと」、「食糧と弾薬が乏しい状況に陥ったこと」、「馬の扱いに長け、分遣隊の中で唯一馬を所有していたテデシオ市民がダヘルの兵数人とともに偵察に赴き、不運にも致命傷を負ったこと」などが書かれた報告書を4月13日中に受け取った。
イブラヒム・ベイはツファット方面から離れ、ダマスカス連合軍左翼と合流していた。
この時点でアブドラ・パシャ軍のおおよその全貌が見え始めていた。
アブドラ・パシャ軍は、ティベリアス湖北のヨルダン川に架かるベナト・ヤコブ橋を渡ってツファット方面から進軍するダマスカス連合軍右翼約8,000人、ティベリアス湖南のヨルダン川に架かるテル・オウィ(Tell Ouy)橋を渡りティベリアを占領してルビア方面から進軍するダマスカス連合軍左翼約15,000騎~50,000騎(イブラヒム・ベイ率いるマムルーク軍を含むかは不明だが、恐らく含んでいる)、ジェニン方面から進軍するナブルス軍約10,000人で構成され、合計約33,000人~68,000人であると予想された。
ボナパルトは、出来得ることならダマスカス連合軍の右翼と左翼、そしてナブルス軍に連携を取らせることなくこれら3つの軍を各個撃破することが理想であると考えていた。
ツファット方面から進軍するダマスカス連合軍右翼の動きは予測が容易だが、ダマスカス連合軍左翼の兵力は不明であり、その動きは単純にアッコを目指して進軍するだけでなく様々な変化があると考えられた。
ボナパルトはアッコでの戦況が不利であることを認識しており、圧倒的に数的優位な立場の大軍を追い払うには総力戦と決戦が必要であると判断した。
もしこの大軍を打ち破ることができれば、意に反してフランス軍に敵対している周辺住民はジェザル・アフマド・パシャの威勢を信頼できなくなり、再びフランス軍と対峙する意欲も薄れるだろう。
そのため総力を挙げてダマスカス連合軍をヨルダン川の向こうに撃退することを決意した。
ミュラ将軍への命令
ボナパルトはベナト・ヤコブ橋を急襲することを目的としてミュラ将軍にランヌ師団に所属しているフランソワ・ランボー(François Rambeaud)少将と歩兵約1,000人、1個騎兵連隊を率いて13日午前3時に出発するよう命じた。
その目的はツファット砦を無視してベナト・ヤコブ橋を急襲することでダマスカス連合軍右翼の退路を遮断し、それによりツファット砦の包囲を解除させ、クレベール師団もしくはその分遣隊とともにダマスカス連合軍右翼を各個撃破することだった。
アフマド・パシャの息子が指揮するダマスカス連合軍右翼約8,000人は分散しており、ベナト・ヤコブ橋の陣地の兵力は少数であると考えられ、気付かれずに急襲すれば容易に撃破できると考えられた。
ボナパルトはミュラ将軍に以下のような命令を下した。
1、可能性は低いがダマスカス連合軍右翼の進軍速度が想定以上で、すでにアッコに向かって進軍している場合、ツファット方面に派遣されるクレベール師団の別動隊とともに(アッコの予備軍と挟撃する目的で)その後ろを追跡する。
2、ミュラ旅団がベナト・ヤコブ橋を占領した後、ダマスカス連合軍右翼がベナト・ヤコブ橋方向に撤退した場合、ツファット方面に派遣されるクレベール師団の別動隊がその後を追跡し、挟撃する。
3、テル・オウィ橋方面にダマスカス連合軍右翼が撤退した場合、その追跡はクレベール師団の別動隊に任せる。
4、最終的にダマスカス連合軍右翼が散り散りになった場合、最大限の損失を敵に与える。
5、任務完了後、4月19日までにはアッコに帰還する。
しかし、ダマスカス連合軍左翼とナブルス軍の動向によってはクレベール師団がツファットに兵力を向けることができない可能性があるため、ミュラ将軍には支援を当てにせず単独で作戦を遂行するよう求めた。
クレベール将軍への命令とミュラ将軍への命令の変更
1、クレベール師団はナザレ周辺地域でナブルス方面とルビア方面を警戒するが、状況が許せばミュラ将軍の作戦を支援するためにツファットに師団を進軍させる。
2、もし師団をツファットに向けることができなかった場合、ツファット方面に別動隊を派遣してミュラ旅団を支援する。
3、テル・オウィ橋方面にダマスカス連合軍右翼が撤退した場合、別動隊はそれを追跡する。
しかし、これらの命令を発した後、クレベール将軍からテル・オウィの位置にあるはずの橋は破壊されているとの報告を受け取った。
ボナパルトは地元住民はそこに橋があるかのように語っていることを聞いていたため、僅かではあるが情報の錯綜が起こった。
4月14日、情報収集を進めるとテル・オウィ橋は破壊されており、ティベリアス湖南のヨルダン川に架かる橋はジェスル・エル・マジャミ(Jisr el Majami)橋のみであることが判明した。
※テル・オウィ(Tel Ouy)橋は地元住民でさえそこに橋があるように話をしていたことから、最近になって破壊されたのだと推測できる。恐らくカクーンの戦いで敗北したアブドラ・パシャが、フランス軍がヨルダン川を渡って進軍してくることを妨害する目的で破壊したのだろう。
※ジェスル・エル・マジャミ(Jisr el Majami)橋は古代ローマ様式と考えられる石橋である。ベナト・ヤコブ橋はマムルーク様式の石橋。

※テル・オウィ橋があった場所の当時の地図を拡大したもの。恐らく、Ruines(遺跡)と書かれている場所にテル・オウィ村があったのだと考えられる。橋①は橋の廃墟(Pont ruine)と書かれているため使用不可能だったと考えられ、テル・オウィ村跡地の北西にあった橋②がテル・オウィ橋だと考えられる。橋③はヨルダン川左岸から右岸に渡るための橋ではない。【ナポレオンのシリア戦役】
そのため、ミュラ旅団によってベナト・ヤコブ橋が占領された後のダマスカス連合軍右翼の選択肢は、ベナト・ヤコブ橋に向かって大軍を動かしミュラ将軍を攻撃するか、ジェスル・エル・マジャミ橋を保持するためにティベリアを防衛するかのどちらかだろうと考えられた。
前者の場合、アッコの予備軍でダマスカス連合軍右翼を追跡し、ミュラ旅団の支援を行う。
後者の場合、ベナト・ヤコブ橋やツファット周辺地域からダマスカス連合軍右翼が排除されたと判断し、ダマスカス連合軍右翼を追跡してティベリアへ向かう。
これによりダマスカス連合軍右翼をヨルダン川左岸側に撃退することができるのである。
そこへナブルス軍がナザレの南約10㎞のところに位置するソウリン(Soulin)の8㎞(2リーグ)手前に出現したとの急報を受け取った。
※ソウリンの8㎞手前とは、ソウリンとジェニンのちょうど中間地点の辺りである。他の資料では「アラブ軍がナブルス山脈の入り口に現れた」と書かれている。
そのためダマスカス連合軍右翼がティベリアに向かった場合、速やかに追撃してクレベール将軍の救援に当たるようミュラ将軍に命令したのである。
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