シリア戦役 48:アッコ城壁の角にある大きな古い塔の半壊と新たな防衛線の出現
A new line of defense emerges

大きな古い塔の崩壊

 1799年4月24日夜、カメリア山を越えてアッコに来るはずの重砲以外のすべての準備が整った。

 突入兵力は隠されて配置され、地雷の埋設も完了していた。

 そして大砲が発射され続ける中、遂に地雷に点火された。

 地中から爆発音が鳴り響き、地上では地面が揺れ、大きな建物が崩れ去る轟音が鳴り響いた。

 しかしその成果は作業員たちの思惑とは異なっていた。

 作業員たちは大きな古い塔を完全に崩壊させるつもりだったが、塔の半分のみがまるで剃刀で切ったかのように倒壊し、残りの半分は揺れただけだった。

 300人のアッコ守備隊の兵士、倒壊した塔に配備された大砲4門や突破口を防衛するための備品が塔の残骸とともに堀に崩れ落ちた。

偵察部隊のアッコ要塞への突入

 4月25日、大きな古い塔は以前と同様に登攀が困難な状態だった。

 ボナパルトは城壁の向こうの様子を探るために工兵中尉1人、工兵10人、ヴォー将軍率いる歩兵20人で構成される合計32人の偵察部隊を派遣した。

 偵察部隊は1階の曲面天井の瓦礫に駐留した。

 しかし、半分倒壊した塔にいたアッコ守備隊の兵士は声を掛け合って連携を取り、さらに上層階の曲面天井の瓦礫を占領していた。

 上層階にいるアッコ守備隊の兵士たちは有利な射撃を行い、数樽の燃え盛る火薬を投げつけた。

 偵察部隊は上層階にいる敵を排除しようとしたが、上層階に通じる階段は破壊されていたため偵察部隊はアッコ守備隊を撃退することができなかった。

 そのため偵察部隊は撤退を余儀なくされた。

 この時の攻撃で第一次イタリア遠征の時から付き従って来たヴォー(Antoine Joseph Veaux)将軍が重傷を負った。

 ヴォー将軍は戦線離脱を余儀なくされ、後日、ラ・マリアンヌ(La Marianne )号に乗せられてアレクサンドリアへと送られた。

 フランス軍は塔の上部にある曲面天井の部屋を占拠するつもりだったが失敗した。

 もし占拠できていれば、東側城壁のすべてを制圧し、城壁の内側へ侵入することができるはずだった。

フランスからの亡命者フェリポー大佐の進言

 4月下旬、ジェザル・アフマド・パシャはもはやアッコを防衛できる望みはないと考え撤退を検討した。

 ペレー戦隊の活躍もあってかロードス軍の到着は日に日に遅れ、攻撃を受けて捕らえられる危険があった。

 しかし防衛を指揮しているフェリポー大佐は、「反撃線に沿って前進する以外に防衛を長引かせてロードス島軍の到着時間を稼ぐ方法はない。」と判断しジェザル・アフマド・パシャに進言した。

「あなた方は敵よりも砲兵力で勝っており、守備隊の兵力は包囲軍(フランス軍)の3分の1の強度です。

 多くの人員を失っても、あなた自身に何の支障もありません。

 なぜなら、殺される兵士1人につき、3人の命が手に入るからです。

 包囲軍の兵力はあなたの前にいる6、7千人程度に過ぎません。

 彼らの軍隊の一部はヨルダン川で監視下に置かれていたり、ヤッファ、ハイファ、ガザ、エル・アリシュに駐屯していたり、輸送隊の護衛に当たっていたりするからです。

 もしあなたの守備隊が勇敢であると同時に規律正しかったら、フランス軍の後方で戦闘を開始して解囲させるために、私は守備隊のほとんどをナブルスの海岸に上陸させることを提案します。

 しかし、私たちが日々の様々な出撃で目にする例、つまり、エスドラエロン平原で少数の兵士に打ち負かされたダマスカス軍の例を見ればそのような作戦がどのような結果をもたらすかは容易に理解できるでしょう。

 あなたに残された救済手段はただ一つ、反撃隊を率いて敵に向かって進軍することです。

 あなた方は武器を持ち、道具、綿や羊毛の俵、樽、木材、土嚢が豊富に供給されており、この戦争では有利になるでしょう。

 包囲側は疲れ果て、多くの人員を失い、補充する手段がないため攻城側は弱体化するでしょう。

 ロードス島の軍隊が到着すれば包囲を解かせることができるようになります。」

 つまりこの進言は「優勢な砲兵の支援下で有利な消耗戦を行い、ロードス島軍が到着するまで時間稼ぎをしよう」というものである。

 消耗戦の有利不利はともかくジェザル・アフマド・パシャ軍に残された選択肢は多く無くフェリポー大佐の進言は残された選択肢の中で最も有効だと考えられた。

 この進言は採用された。

※4月下旬(4月21日~4月30日までの期間)とのことだが、ジェザル・アフマド・パシャがアッコを防衛できる望みが無いと考えていること、フェリポー大佐が「残された救済手段はただ一つ、反撃隊を率いて敵に向かって進軍すること」と主張していることから、アッコ城壁に突破口が開かれた直後だと考えられる。アッコ城壁に突破口が開かれたのは4月24日夜であるため、24日か25日中にフェリポー大佐が進言したと考えられる。

 フェリポー大佐はフランス人であり、共和党に支配されているとはいえ祖国フランスの軍と戦うことに葛藤を覚えていた。

 そのことを城内のフランス人捕虜に打ち明けていたが、フェリポー大佐が立場を変えるにはもう遅すぎた。

※フェリポー大佐の父は王党派の士官であり、母はフランスのベリー県に起源を持つ貴族ラ・シャトレ家(Famille de La Châtre)出身だった。王党派の家系に生まれたフェリポー大佐は1791年(ヴァレンヌ事件があった年)に亡命し、コンデ軍に入隊したのである。

新たな防衛線の出現

1799年4月25日、アッコ城壁内の新たな防衛線の位置

※1799年4月25日、アッコ城壁内の新たな防衛線の位置

 偵察部隊が撤退した数時間後、24ポンド砲がまだ倒壊を免れていた半分になった塔の破壊を開始した。

※この時点ではヤッファに降ろされた24ポンド砲は届けられていないため、この24ポンド砲は以前ハイファで鹵獲され突破砲台に配備された24ポンドカロネード砲のことだと考えられる。

 4月25日、支援砲撃の中、フランス軍は大きな古い塔の残骸に陣地を築き、リエダット(Liédat)工兵士官がこの遺跡に築いた陣地の指揮を執った。

 城壁の内側を観察すると、城壁の先は開けていたが塹壕が築かれていた。

 アッコ守備隊は東側城壁を突破された場合に備え、ジェザル・アフマド・パシャの宮殿とエル・ジェザル・モスク(El-Jazzar Mosque)を要として城壁の内側に簡易ながらも防衛線を構築していたのである。

 アッコ要塞を陥落させるにはこの防衛線を突破する必要があった。

 しかしアッコ要塞内への侵入口はまだ1ヵ所のみだった。

 その他の城壁や塔はアッコ守備隊の占領下にあり、息を潜めて塔の中央部に潜入していたリエダット工兵士官率いる20人は適当な隠れ家(陣地)を見つけることができなかった。

 そのため4月26日夜明け前、リエダット工兵士官率いる部隊は陣地を放棄して塔内から撤退した。

 フランス軍は26日と27日も砲撃を継続した。

 この時までにフランス軍の塹壕は突破口の麓まで伸びており、隠れて塔の内部に侵入することができる状態となっていた。

アッコ要塞内の第2防衛線の強化の開始

 この時点では城壁に開けられた突破口は狭いが、アッコ城壁全体が破壊、もしくは占拠され、そこにフランスの陣地が築かれるのは時間の問題だと考えられた。

 それに加えてジェザル・アフマド・パシャの宮殿とエル・ジェザル・モスクを要とする城壁の内側の第2防衛線には大砲が配備されていなかった。

 そのため先ず砲台を建設して戦線を支援するためにエル・ジェザル・モスクの右側とジェザル・アフマド・パシャの宮殿の前にレダンの建設を開始した。