シリア戦役 49:カッサーノ・ダッタの戦い【イタリア戦線】
Battle of Cassano (1799)
※「アレクサンドル・スヴォーロフ伯爵の肖像」。ジョセフ・クロイツィンガー(Joseph Kreutzinger)画。1799年。
※アレクサンドル・スヴォーロフは6つの戦争(七年戦争、バール連盟戦争、第6次露土戦争 、第7次露土戦争 、コシチュシュコの蜂起、第二次対仏大同盟戦争(イタリア戦役、スイス戦役))と55回以上の戦いに参加し、生涯一度も敗北しなかったため「不敗の指揮官」として知られている。1799年に行われた第二次対仏大同盟戦争参戦時は68歳だった。
スヴォーロフ元帥率いるロシア・オーストリア連合軍のアッダ川への進軍
※1799年4月下旬、スヴォーロフ元帥率いるロシア・オーストリア連合軍のアッダ川への進軍とクレイ師団によるペスキエーラ要塞及びマントヴァ要塞の包囲
ブレシアとクレモナを占領したスヴォーロフ元帥はアッダ川を渡るためにはフランス軍が敗戦の衝撃から回復する前に複数の地点から同時に進軍する必要があると考えていた。
そのためには行軍速度が重要だったが、オーストリア軍の総司令官メラス将軍率いる軍は雨の中の長い行軍の後で部隊に十分な急速を与えるなどしたためその行軍速度は遅く行軍計画を乱していた。
スヴォーロフ元帥はメラス将軍に対し「女、意気地なし、怠け者は好天の時にしか動かない...体調の悪い者は後ろに残しておけ...軍事行動においては、敵に正気に戻る時間を与えないよう、素早く考え、即座に実行しなければならない...視界を広げ、行軍速度を上げ、猛攻を行うのだ」と憤慨を表す書簡を送った。
加えて、ウィーンの宮廷からロンバルディアの要塞を占領するよう要請を受けていた。
スヴォーロフとしてはペスキエーラ要塞及びマントヴァ要塞とイタリア方面軍の連絡線は遮断されており、チロル経由の兵站線は確保できているため、マントヴァ要塞やペスキエーラ要塞のために兵力を割くよりも早急にアッダ川で防衛線を構築しつつあるフランス軍を叩き、スイスとイタリア半島にいるフランス軍との合流を防ぐことが重要だと考えていた。
しかしウィーンの宮廷としてはマントヴァ要塞とペスキエーラ要塞の救出が重要であると考えており、これらの要塞を約10,000人の兵力で封鎖のみに留めているスヴォーロフ元帥に対して要塞占領を要請する書簡を送ったのである。
スヴォーロフ元帥はウィーンの宮廷の要請を無視できず、クレイ師団からロシア部隊を分離し、約20,000人となったクレイ師団にペスキエーラ要塞とマントヴァ要塞を攻囲するよう命じた。
そのためクレイ将軍はミンチョ川方向に引き返し、アッダ川方面に向かうロシア・オーストリア連合軍は約50,000人となった。
クレイ将軍が抜けた後のロシア・オーストリア連合軍右翼の指揮はローゼンベルク中将が引き継ぐこととなった。
数日後、クレイ師団はペスキエーラ要塞とマントヴァ要塞を包囲した。
両軍の強度と配置
※1799年4月25日、カッサーノ・ダッタの戦いにおける両軍の強度と配置
連合軍総司令官スヴォーロフ元帥は約50,000人の兵力を以下のように配置し役割を決定した。
ロシア・オーストリア連合軍は右翼19,000人(バグラチオン旅団3,000人、ヴィカソヴィッチ旅団7,000人、ローゼンベルク師団9,000人)をローゼンベルク将軍が指揮し、レッコとブリーヴィオでアッダ川を渡河する。
中央①10,000人(ツォプ師団5,000人、オット師団5,000人)はツォプ将軍が指揮し、トレッツォとヴァプリオ(Vaprio)でアッダ川を渡河する。
中央②約13,000人(カイム師団、フレーリッヒ師団)はメラス将軍が指揮し、トレヴィリオに布陣してカッサーノのフランス軍主力軍と相対する。
そして左翼約12,000人(ゼッケンドルフ旅団6,000人、ホーエンツォレルン旅団6,000人)はホーエンツォレルン将軍が指揮し、ロディとピッツィゲットーネを突破した後、パヴィアへ向かう。
対するフランス軍は、左翼セリュリエ師団約6,000人(アッダ川右岸のセリュリエ師団:約4,000人、レッコのソエイズ旅団:約2,000人)がブリーヴィオからレッコ要塞周辺地域、中央グルニエ師団約8,000人(ヴァプリオ:約5,000人、カッサーノ:約3,000人)がヴァプリオとカッサーノ周辺地域、右翼ヴィクトール師団約14,000人(ヴィクトール師団:約10,000人、ラボワシエール(Laboissière)師団:約4,000人)がロディとピッツィゲットーネの防衛を担当していた。
約100キロに及ぶアッダ川の防衛線は約28,000人のフランス兵によって守られていた。
前任のシェレール将軍はフランス本国に増援を求め、2個師団約16,000人がアッダ川の前線に向かっていたが到着は遅れていた。
スヴォーロフ将軍の計画は、右翼が先行して陽動攻撃を行い、その間にメラス将軍率いる主力軍をトレヴィリオに集結させてカッサーノを通過するというものだった。
この時、その行軍速度の遅さによりメラス将軍率いる主力軍はトレヴィリオに到着し始めたばかりだった。
そのためスヴォーロフ元帥は行軍を急がせた。
レッコ要塞での戦闘
※1642年のレッコ要塞図(上:南)。恐らく1799年時点では堀はともかく城と城壁、堡塁などは残されていたと考えらえる。
※1799年の要塞での戦闘図。
1799年4月25日、ロシア・オーストリア連合軍右翼を率いるローゼンベルク将軍はベルガモ要塞を占領するとすぐにバグラチオン旅団を前衛としてレッコに派遣した。
26日未明、バグラチオン将軍は「レッコはフランス軍によって厳重に占領されている」と報告した。
ソエイズ(Soyez)大佐は4個大隊と1個騎兵中隊、大砲12門を率いてレッコを防衛していた。
26日午前8時、バグラチオン少将率いるロシア・オーストリア連合軍右翼の前衛旅団約3,000人がレッコに接近するとソエイズ旅団の前哨部隊と遭遇し、攻撃を開始した。
アッツォーネ・ヴィスコンティ橋の対岸には6門の大砲が配備されたセリュリエ師団の一部が配置されており、ロシア軍の渡河を阻んでいた。
バグラチオン将軍は旅団を3個縦隊に分割し、1つ目の縦隊をレッコ要塞に向かわせ、2つ目の縦隊をレッコ要塞へ迂回攻撃のために向かわせ、3つ目の縦隊は予備として残した。
バグラチオン旅団は激しい抵抗に遭いつつもレッコ要塞を占領した。
サン・マルティーノ山に撤退したソエイズ旅団だったが、ロシア軍が少数であることに気付き、旅団を2つに分割してレッコ要塞を取り戻そうとした。
1つ目はレッコ要塞正面へ向かい、2つ目は東の山を迂回してジェルマネド(Germanedo)村に向かった。
バグラチオン旅団は防戦一方となりレッコ要塞を奪い返され、ローゼンベルク将軍に救援を求めた。
そこへミハイル・ミロラドヴィッチ将軍率いる大隊が戦場に到着した。
ミロラドヴィッチ将軍が戦線を見るとジェルマネド村から現れたフランスの迂回部隊がバグラチオン旅団の側面を攻撃しているところだった。
ミロラドヴィッチ将軍はすぐに戦闘準備を整えると麾下の歩兵大隊とともにフランスの迂回部隊へと突撃した。
この時、バグラチオン将軍は自分より階級が上のミロラドヴィッチ将軍に指揮権を委譲しようとしたが、ミロラドヴィッチ将軍は状況を見て断ったと言われている。
その後、バグラチオン将軍は負傷しながらも戦い、ロシア側に2個大隊が到着すると兵力差は逆転しソエイズ旅団は完全に劣勢となった。
戦闘開始から12時間が経過した午後8時、ソエイズ大佐は撤退を余儀なくされ、レッコは再びロシア軍の手に落ちた。
ソエイズ旅団は北へと逃亡した。
しかし、バグラチオン旅団には追撃する力は残されていなかった。
ブリーヴィオからアッツォーネ・ヴィスコンティ橋までのアッダ川右岸側を防衛していたセリュリエ将軍はモロー将軍からの撤退命令を受けるとアッツォーネ・ヴィスコンティ橋とブリーヴィオに架かる橋を破壊してカッサーノへ向かった。
この時、セリュリエ将軍はアッツォーネ・ヴィスコンティ橋の10個あるアーチの内、西側の2つのアーチに爆弾を仕掛けて爆破させたと言われている。
※レオナルド・ダヴィンチの「モナリザ」の背景の橋はレッコに架かるアッツォーネ・ヴィスコンティ橋だという説がある。
イタリア方面軍総司令官モロー将軍は左翼(セリュリエ師団)への攻撃は陽動だと見抜いており、連合軍主力はカッサーノ周辺地域で渡河するつもりだろうことを予測していた。
そのため左翼のセリュリエ師団だけでなく、右翼のヴィクトール師団にもロディとピッツィゲットーネに守備隊を残してカッサーノに向かうよう命じていた。
その後、アッツォーネ・ヴィスコンティ橋からの渡河を諦めたバグラチオン旅団はヴィカソヴィッチ旅団が接近しているブリーヴィオへ向かい、その途中で野営した。
スヴォーロフ元帥はローゼンベルク師団の結果報告を待つためにトレッツォへの渡河を4月27日夜まで延期した。
ブリーヴィオ及びトレッツォでのアッダ川の渡河
※参考:「トレッツォとヴィスコンティ城」。ディオニジ・マリア・フェラリオ(Dionigi Maria Ferrario)画。19世紀。イラストの左の方にサン・ジェルヴァージオがある。
4月26日夜~27日未明、連合軍はアッダ川左岸側の渡河地点を確保し、ブリーヴィオでは落とされた橋を修復し、橋が無いトレッツォでは簡易的な舟橋を作っていくつかの地点で渡河作業を開始していた。
ブリーヴィオではヴィカソヴィッチ旅団、トレッツォではオット師団がアッダ川の渡河を試みようとしたのである。
このトレッツォでの渡河作戦開始前、スヴォーロフ元帥自らオーストリアの参謀長シャストレー(Chasteler)将軍とともに視察をし、川の流れの速さや急峻な岸の地形を見てフランス兵が対岸にいる中での渡河は不可能だと判断していた。
しかしシャストレー将軍は諦めず、カプリアーテ(Capriate)に舟橋作成のための資材を置き、部隊を陰に隠れさせ、夜の暗闇の中でフランスの監視兵の目を掻い潜り、資材を組み立ててサン・ジェルヴァージオから渡河するという作戦を実行して27日午前5時に渡河を開始させたのである。
ポンテ・サン・ピエトロを出発した舟橋用の舟が26日午後11時まで到着しなかったため作業開始時間が遅れ、強風と雨が吹き荒れる暗闇の中での作業だったが、シャストレー将軍と工兵たちは仕事をやり遂げた。
シャストレーの兵士たちは続々と渡河を行い、気付かれることなくトレッツォに接近し、夜明けにフランス軍前哨基地を襲撃した。
トレッツォを守っていたフランス大隊はこの襲撃に驚き撤退していった。
27日午前、メラス騎兵大将もカイム師団とフレーリッヒ師団を率いてトレヴィリオからカッサーノに向かって進軍を開始した。
この時セリュリエ師団約3,000人はヴィカソヴィッチ旅団が橋を修復してブリーヴィオで渡河をしようとしていることを知ってヴァプリオからブリーヴィオに向かっている途中であり、トレッツォに1個大隊を残していた。
そのためトレッツォでの渡河はセリュリエ将軍にとって奇妙な出来事だった。
実はこの時、セリュリエ将軍がトレッツォに残した1個大隊はヴィスコンティ城(Visconti Castle)を占領してカプリアーテを監視していたが、北のサン・ジェルヴァージオは渡河に不向きな地点だと考えられていたため監視していなかったのである。
トレッツォでの戦闘
27日午前9時、モロー将軍の元にトレッツォから逃れて来た大隊からの急報が届けられた。
トレッツォを失ったことを知ったモロー将軍はすぐにヴィクトール師団をカッサーノから出発させた。
セリュリエ将軍はアッダ川を渡河したシャストレー将軍率いるオット師団の前衛部隊の位置を完全に把握しないまま事態に対応するためにトレッツォに向かった。
そして撤退してくるトレッツォに残していた1個大隊を加え、アッダ川右岸の橋頭保を守るシャストレー旅団に攻撃を仕掛けた。
この時、シャストレー旅団はまだ渡河を完了しておらず数的劣勢だったが舟橋を守り、左岸側の部隊の渡河を護衛した。
3,000人のセリュリエ師団が押され始め、シャストレー旅団がアッダ川右岸側に橋頭保を築きつつある時、ヴィクトール師団が到着した。
この時、ヴィクトール師団は8,000人の兵力でロディ周辺から出発したが、カッサーノに2,000人を残して出発したためトレッツォに到着した時には6,000人となっていた。
ヴィクトール将軍はトレッツォから撤退してきた者も含めた部下たちを即座に結集させ、右岸の安全がまだ完全に確保されていない連合軍と交戦した。
トレッツォでの戦いは圧倒的に数的優勢を誇るフランス軍が勝利し連合軍が左岸側への撤退を余儀なくされると思われたその瞬間、オット師団主力がサン・ジェルヴァージオに到着した。
オット将軍はすぐに部隊を派遣してトレッツォの前線を支え、崩壊しつつあった戦線を維持した。
しかし、セリュリエ師団とヴィクトール師団の合計9,000人に対してオット師団は5,000人であり、戦線の崩壊は免れたものの数的劣勢であることには変わりなかった。
ヴィクトール将軍はさらに数個連隊をセリュリエ将軍の元に派遣してセリュリエ師団を支え、勝利をつかみ取ろうとした。
セリュリエ将軍は持ち場を守り、フランス軍の勝利は目前だと思われた。
しかし午前10時、グルニエ師団が守るヴァプリオへの渡河を諦めたツォプ師団数千人が大砲25門を持ってオット師団の救援に駆け付けた。
ツォプ将軍は即座に長い縦隊へと師団を再編成し、アッダ川左岸沿いに大砲を並べて支援砲撃を行い、舟橋を通過した。
これにより戦況は連合軍有利となり、セリュリエ師団とヴィクトール師団はトレッツォからの撤退を余儀なくされ、分断された。
ヴァプリオでの戦闘
※1799年4月27日、カッサーノ・ダッタの戦いにおけるヴァプリオでの戦闘図
セリュリエ師団とヴィクトール師団のトレッツォでの敗北を知ったモロー将軍はヴァプリオを守るグルニエ師団の部隊4,500人を北向きに変え、トレッツォから逃れてくるヴィクトール師団の兵士たちを迎え入れ、トレッツォから進軍してくるオーストリア軍を迎え撃つよう命じた。
そしてセリュリエ将軍にはパルデノ(Paderno)で守りを固めローゼンベルク師団の進軍を止めるよう命じ、ヴィクトール将軍にはグルニエ師団の背後で態勢を立て直すよう命じた。
ヴァプリオへと進軍していたオット師団はグルニエ師団と交戦したが、縦隊からの隊形変化が遅かったこともあってグルニエ師団の抵抗を破ることができず、態勢を立て直したフランス軍の圧力を受けてトレッツォへの後退を開始した。
連合軍は態勢を立て直し、オット師団約5,000人とツォプ師団約5,000人でヴァプリオへの攻撃を再開した。
戦いは拮抗した。
しかし、そこへサン・ジェルヴァージオで渡河して来たロシアのコサック騎兵隊約1,500騎が戦場に到着し、フランス軍の左側面へ迂回して攻撃を開始した。
この攻撃によりグルニエ師団とヴィクトール師団はヴァプリオからの撤退を余儀なくされた。
モロー将軍はこの危険な地点に駆けつけたが、戦況を好転させることはできず、グルニエ師団とヴィクトール師団は戦線を立て直すべくカッサーノに向かった。
トレッツォから撤退し、モロー将軍率いる本体と分断されたセリュリエ将軍はトレッツォから追跡してくるオーストリア軍と交戦しつつブリーヴィオに派遣した部隊と合流するために北上した。
メラス師団によるカッサーノへの攻撃とフランス軍の敗北
※1799年4月27日、カッサーノ・ダッタの戦いにおけるカッサーノでの戦闘図
ブリーヴィオ、トレッツォ、ヴァプリオで戦闘が繰り広げられている頃、メラス師団は何もしていないわけではなかった。
カッサーノではグルニエ師団の一部約2,000人がアッダ川左岸側にあるアッダ川の支流とリトルト運河(Canale Retorto)の背後で2重の橋頭保を築いており、アッダ川右岸側ではヴィクトール師団の一部である2,000人がカッサーノに向かいグルニエ師団の右岸の部隊約1,000人と合流していた。
メラス師団の計画はアッダ川左岸のフランス軍を撃退してアッダ川の渡河を成功させ、カッサーノを占領した後、ゴルゴンゾーラ(Gorgonzola)に向かうというものだった。
メラス将軍はリトルト運河のフランス橋頭保を何度も攻撃して制圧することに成功したが、アッダ川支流の背後の橋頭保は強固であり制圧することはできなかった。
戦闘開始から7時間後、この苦戦を知ったスヴォーロフ元帥はメラス師団の元に向かうと部隊を再編し、30門の砲台を展開して新たな攻勢を開始した。
フランス軍はこの激しい攻撃に耐えることができず、モロー将軍は橋の破壊と撤退を命じた。
しかしフランス軍には橋の一部を破壊する時間しか与えられなかった。
カッサーノの対岸ではメラス師団が急速に再編成を行っているのが見えたのである。
メラス将軍は急いで橋を修復し、フランス軍との新たな激しい戦闘に突入した。
カッサーノのフランス軍はモロー将軍の存在と激励に勇気づけられ勇敢に戦っていた。
しかし戦いの趨勢はすでに決していた。
メラス師団からの攻撃によりフランス軍はほぼ敗走状態であり、サン・ジェルヴァージオで渡河したオット師団とツォプ師団がヴァプリオを占領していた。
そして午後6時頃、モローはメラス師団にアッダ川の渡河を許しカッサーノは占領された。
フランス軍は包囲の危機にさらされており、モロー将軍には全軍の速やかなる撤退しか選択肢は残されていなかった。
しかし撤退するのも容易な状況ではなかった。
オーストリア軍が四方から迫り、フランス兵はその攻撃に対し勇敢に立ち向かっていたのである。
そしてモロー将軍は勇敢なフランス兵の犠牲により撤退の機会を掴み、全軍を撤退させることができた。
この時、ロシア軍とオーストリア軍には撤退していくフランス軍を追撃する力は残されておらず、追跡はコサック騎兵のみに任せられた。
その後、モロー将軍はセリュリエ師団に士官を派遣してミラノの防衛を命じ、スフォルツェスコ城に2,500人を残してティチーノ(Ticino)川で防衛線を構築すべくミラノを去った。
しかしセリュリエ師団との連絡路は連合軍によって遮断されており、モロー将軍の命令がセリュリエ将軍の元に届けられることは無かった。
カッサーノ・ダッタの戦いの後
※1799年4月28日、カッサーノ・ダッタの戦いにおけるヴェルデーリオでの戦闘図
4月27日夕方、トレッツォでの敗北以降ヴェルデーリオへの撤退を余儀なくされたセリュリエ師団約3,000人はパデルノとヴェルデーリオで防衛陣地を築き、連合軍に発見されること無く一夜を過ごした。
北はローゼンベルク師団、南はツォプ師団によってモロー将軍との連絡路は遮断されていたがセリュリエ将軍はそのことに気付いていなかった。
セリュリエ将軍はパデルノとヴェルデーリオで塹壕陣地を強化しつつモロー将軍からの次の命令を待っていた。
しかし28日早朝、オーストリアの1個大隊とロシアの1個コサック騎兵連隊で構成されるヴィカソヴィッチ旅団の先遣隊がパデルノの北約2㎞のところに位置するインベルサーゴ(Imbersago)とロッビアーテ(Robbiate)の間の丘でフランスの騎兵陣地と遭遇した。
コサック騎兵連隊がフランスの騎兵陣地を陥落させると山の上からパデルノをフランス軍が占領しているのが見えた。
ヴィカソヴィッチ旅団の先遣隊がパデルノの前に到着し、状況を把握したヴィカソヴィッチ将軍はパデルノのフランス軍は孤立していると判断して降伏勧告を行った。
しかしセリュリエ将軍は降伏勧告を拒否し、戦う意思を示した。
ヴィカソヴィッチ旅団の先遣隊はパデルノのフランス軍を攻撃して町を占領した。
パデルノを追い出されたセリュリエ師団はもう1つの防御陣地のあるヴェルデーリオに撤退し、迅速かつ巧みに防御を固めた。
そこへヴィカソヴィッチ旅団本体が到着し、ヴェルデーリオへの側面攻撃を開始した。
セリュリエ師団はヴィカソヴィッチ旅団の幾度もの突撃を撃退し、激しい攻防が繰り広げられた。
しかし遂にセリュリエ師団の弾薬が不足し始めた。
ヴィカソヴィッチ将軍は戦法を切り替えヴェルデーリオの防御陣地に飽和攻撃を行った。
セリュリエ師団は防御の不備を衝かれ窮地に追い込まれた。
そこへローゼンベルク将軍率いる師団主力が接近してくるのが見えた。
セリュリエ将軍はこれ以上の抵抗を諦めて降伏を決意し、ヴィカソヴィッチ将軍に降伏条件を提示した。
その結果、セリュリエ将軍の提示した降伏条件は受け入れられ、将校たちは信義に基づいてフランスへの帰国を許され、兵士は捕虜交換が行われる際、真っ先に交換を受ける権利を得ることができた。
アッダ川右岸への退路を遮断されレッコの北へ逃亡したソエイズ大佐率いる分遣隊はさらに北に進み、勇敢にも船でコモ湖を移動し順調な船旅でコモ(Como)に到着した。
その後、無事にティチーノ川の岸辺に到着することに成功しイタリア方面軍との合流を果たすこととなる。
28日、ミラノで防衛するはずのセリュリエ師団は包囲されて捕らえられたためミラノの街はがら空きとなった。
そのため戦闘することなくメラス師団によって占領され、スヴォーロフ元帥は翌29日にミラノに入った。
※「1799年4月、ミラノでのアレクサンドル・スヴォーロフの歓迎式典」。アドルフ・シャルルマーニュ(Adolf Charlemagne)画。19世紀。
1796年5月にナポレオンが占領したミラノの街はその僅か3年後に失われることとなった。
カッサーノ・ダッタの戦いでのロシア・オーストリア連合軍の損失は死傷者約2,000人であり、フランス軍の損害は死傷者約2,500人、捕虜約5,000人、大砲27門、軍旗3旈だったと言われている。
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