シリア戦役 43:クレベール将軍によるアブドラ・パシャ軍への夜襲作戦とミュラ将軍によるベナト・ヤコブ橋への奇襲
General Kleber's night attack operation on Abdullah Pasha's forces

第3次アッコ要塞突入作戦のための砲弾集め

 1799年4月14日時点で、フランスのシリア遠征軍はアッコ城壁の下まで延ばす予定の坑道は堀の外縁壁(カウンタースカープ)を越え、長さ約1㎞に達しようとしており、アッコ城壁まで約600mにまで近づいていた。

 アッコ守備隊は次々とフランスの塹壕陣地などに向けて砲撃しているのに対し、フランス軍は次の突入作戦に備えて2週間もの間、1発もアッコ要塞に砲撃を行わずに砲弾を温存していた。

 そして4月1日~2日にかけて行われた第2次アッコ要塞突入戦以降、ボナパルトは兵士に20ソルを支払って黙々と敵の砲弾を集めていた。

 その結果、フランス軍の物資集積所には約4,000発近くもの砲弾が積み上げられることとなった。

 この砲弾の数は1日中砲撃を行い突破口を開くのに十分であると考えられた。

 ボナパルトはフロレアール(花月)の初旬に再びアッコへの突入を考えていた。

※フロレアール(花月)・・・1799年は4月20日~の30日間。

 アッコ要塞包囲戦でのフランス軍の損害はここまでで死者60人、負傷者30人ほどだったが、将校の割合が多かった。

 メイリー、レスカル(Lescalle)、ロジェが死亡し、将軍ではカファレッリ、副官ではデュロック(Duroc)、ウジェーヌ・ド・ボアルネ(Eugène de Beauharnais)、副参謀ヴィランタン(Valentin)、工兵将校ではサンソン(Sanson)、セイ(Say)、スーエ(Souhait)が負傷していた。

フランス本国の危機とエジプト地中海沿岸の警備の強化

 4月中、フェリポー大佐は塹壕でしばしば行われた交渉の中で、第2次対仏大同盟が結成され、第1次の時よりも強力なものとなっていることをフランス側の使者に伝えていた。

 加えてボナパルトはロードス島のハッサン・ベイが指揮する軍が夏にエジプト沿岸に襲来してくるだろうと予測していた。

 そのため、アレクサンドリアを指揮するマルモン将軍に「5月にはエジプトに帰還するだろうこと」を伝えた。

 恐らくダマスカス遠征は麾下の将軍の誰かに任せ、自らはロードス島の軍へ対応することを考えたのだろう。

 ボナパルトは第2次対仏大同盟に関する情報を得て以降、東洋軍をフランス本国に帰還させることを考えるようになったという。

 帰還させる方法の1つがアッコ要塞を陥落させた後、ダマスカス、トリポリ、アレッポを占領してコンスタンティノープルに攻め上り、陸路でヨーロッパにたどり着くというものだった。

※第2次対仏大同盟についての情報をナポレオンが4月のいつ入手したかは不明である。フェリポー大佐はアッコ港に4月5日~6日にかけて上陸しているため、それ以降となる。ナポレオンは4月14日にマルモン将軍に「5月にはエジプトに帰還するだろう」と伝えているため、その直前くらいの時期が最も可能性が高いだろう。

 そして4月14日、ダミエッタを指揮するアルメラス将軍に、ダミエッタの北方にありナイル川右岸側に建設したレスベ(Lesbe)要塞と物資集積所を失わないよう命じた。

 フランスのシリア遠征軍がシリアで戦っている間にロードス島のハッサン・ベイが上陸部隊を派遣した場合、レスベ要塞が重要な役割を果たすだろうと予想されたからである。

ダマスカスとの連絡線の放棄

 4月13日夜~14日未明、クレベール将軍はダマスカス連合軍左翼の後衛が大胆にもルビアの高地を放棄し、バザールに向かったことを知った。

 ルビアはダマスカスやダマスカス連合軍右翼との連絡を維持するための重要地点であるはずだが、アブドラ・パシャはこれを放棄したのである。

 クレベールは「この好機を逃さずダマスカス連合軍左翼後部の奇襲に成功すれば、敵は撤退を余儀なくされるだろう」と考えた。

 そのため夜襲計画を立案し、総司令官に書簡を送った。

 しかし、この時アブドラ・パシャはダマスカスからナブルスへ連絡線の変更を行っており、ダマスカス及びダマスカス連合軍右翼との直接の連絡を自ら切り離す選択をしていたのである。

ミュラ将軍のベナト・ヤコブ橋への出発

 4月14日夜明け、ミュラ将軍が騎兵隊とともにアッコの野営地を出発した。

 歩兵は13日午前3時に順次出発しており、ミュラ将軍はそれを追いかけたのである。

 ミュラ旅団の目的はツファット方面のダマスカス連合軍右翼に気付かれることなくベナト・ヤコブ橋を急襲してこれを占領することであり、翌15日午前にはベナト・ヤコブ橋に到着すると予想された。

クレベール将軍の夜襲計画

1799年4月15日、クレベール将軍の夜襲計画

※1799年4月15日、クレベール将軍の夜襲計画

 4月14日、クレベール将軍からアブドラ・パシャ軍への夜襲計画が届けられた。

 クレベール将軍の夜襲計画は、ヨルダン川と敵の間を進軍してダマスカスとの連絡線を遮断し、16日午前2時にバザールにあるだろうアブドラ・パシャ軍後衛の野営地に夜襲を仕掛けるというものだった。

 ボナパルトは4月14日付けのクレベール将軍宛の書簡で「もし敵があえてあなたの陣地の近くに陣取るなら、あなたが夜襲を仕掛け、それがエル・アリシュの攻撃と同じ成功を収めるであろうことに疑いの余地はない。」と返答した。

 ボナパルトはクレベール将軍の計画は練り上げが不十分だと考えていた。

 クレベール師団のいるサフォーレ(Safoureh)からバザールまでは5リーグ(約20㎞)もの道程があった。

※14日時点でのダマスカス連合軍左翼の位置は、前衛(恐らくイブラヒム・ベイ率いるマムルーク軍)はナブルス軍と合流してソウリン近く、主力軍はタボル山を迂回した先にあるエスドラエロン平原の入り口辺り、後衛はバザールにおり、主力軍は西進し、後衛は主力軍を追ってナブルス軍と合流しようとしていたのだと考えられる。

 クレベール将軍はアブドラ・パシャ軍の作戦線を遮断できると考えていたが、アブドラ・パシャ軍はすでにヨルダン川の作戦線を放棄しナブルスの作戦線に変更しようとしていた。

 そのためクレベール師団による機動はアブドラ・パシャの進撃を阻止することはできず、アッコへの進軍は継続され、アッコ包囲軍が危険にさらされる可能性が増すものだった。

 クレベール将軍の夜襲計画は現実的ではなく、ボナパルトは、クレベール将軍自身が選んでいない地形に夜明けまでに到着すること、ダマスカス連合軍左翼とナブルス軍に包囲されて最大の危険に直面するだろうこと、クレベール師団と包囲軍が同様に危険にさらされるだろうことを予見したと言われている。

※これらの予見はセントヘレナのナポレオンが主張していることである。ナポレオンは4月15日の日暮れにはクレベール師団がいたサフォーレの近くに到着している。もしそのような予見をしていたとしたらクレベール将軍を引き止めただろうと考えられる。恐らくナポレオンはこの時点でアブドラ・パシャ軍の正確な位置を把握しておらず、クレベール将軍が把握した上で夜襲計画を実行に移したと思っていたのだろう。しかし、後になってアブドラ・パシャ軍との距離は遠く、正確な位置も把握していないことが判明したため引き止めることができなかったと考えられる。

ミュラ将軍によるベナト・ヤコブ橋への奇襲

 4月15日未明までに、ツファット近郊にまで進軍したミュラ将軍から「今日の夜明けに敵を攻撃する。」との書簡が送られてきた。

 一方、ボナパルトはナザレとソウリン(Soulin)村の間に移動する予定だったが、夜襲のために出陣する予定のクレベール師団の行軍ルートが不明だった。

 そのためクレベール将軍に師団の正確な位置を知らせるよう要求した。

 そして15日夜明け、ミュラ旅団はベナト・ヤコブ橋にあるダマスカス連合軍右翼の本部を急襲した。

 この時約8,000人の軍の指揮官であるアブドラ・パシャの息子はツファットやティベリア周辺地域に分遣隊を派遣し軍を分散させていたため、攻撃を受けた時点で2,000人以上の兵士を集結させることができなかった。

 アブドラ・パシャの息子は大きな損失を出しながらダマスカスへと敗走した。

 ミュラ将軍はダマスカス連合軍右翼の陣地に残されたテント、荷物、ラクダ、大砲を奪い、多くの捕虜を捕らえた。

 指揮官が敗走しベナト・ヤコブ橋の退路を遮断されたツファットとティベリア周辺地域に残されたダマスカス連合軍右翼の分遣隊の一部はミュラ旅団に立ち向かったが、多くはヨルダン川の源流からダマスカスに逃れた。

 その後、ミュラ将軍は抵抗する残兵を排除しつつツファット砦の包囲を解除し、ダマスカスへ逃亡する敵兵を追跡した。

ナポレオンのアッコ前からの出発

 4月15日、ついにアッコの予備軍を動かす時が来た。

 ボナパルトはボン将軍に対し、直ちに出発してナザレとソウリン(Soulin)村の間に陣取り、早急にクレベール将軍との連絡を確立するよう命じた。

 正午頃(恐らく午後12時30分)、準備を終えたボン将軍は約2,000人を指揮し、8ポンド砲2門、榴弾砲1門、4ポンド砲1門、弾薬5,000発を携行して出発した。

 その際、ルトゥルク(François Charles Michel Leturcq)少将率いる騎兵150騎が先導することとなっており、ボン師団の前衛が高地に進んだ時、縦隊の前に立って案内役を務めた。

 ルトゥルク将軍の部隊には大砲1門が配備されていた。

 この出発はアッコ守備隊に気付かれることなく行う必要があった。

 そのためボン将軍は城壁の上から発見されないよう丘陵地帯の背後に隠れながら最大限の注意を払って出発した。

 総司令官はボン師団出発の30分後にアッコを発つ予定となっていた。

 アッコからナザレとソウリンの間の距離は約40㎞であり、その移動にはおよそ1日半かかると考えられた。

 4月15日午後1時、ボナパルトはアッコを出発し、日暮れまで行軍してボン師団とともにサフォーレの北に野営した。

クレベール将軍による夜襲作戦の開始

 4月15日夕方、クレベール将軍は2,000人の歩兵とともにサフォーレの高地を出発した。

※ナポレオン1世書簡集には「クレベール将軍はヨルダン川と敵の間を移動し、攻撃するためにタボル山を迂回して26日(4月15日)から27日(4月16日)まで一晩中行軍した。彼は夜明けになって初めて敵の前に現れた。」とある。

 クレベール師団の目標はダマスカス連合軍左翼とダマスカスとの連絡線を遮断しつつ16日午前2時にその後背を衝くことだった。

 クレベール将軍は、総司令官が「もし敵があえてあなたの陣地の近くに陣取るなら」と条件を付けたにもかかわらず、約20㎞離れているアブドラ・パシャ軍への夜襲計画を実行に移したのである。

 エル・アリシュでのレイニエ将軍による夜襲の成功は、アブドラ・パシャ軍の位置が固定されておりレイニエ将軍が2日間をかけて幕僚たちとともに偵察していたからである。

 しかしクレベール将軍は自分自身も幕僚たちも知らない地形で夜間に作戦行動を起こすことになる。

 さらにクレベール将軍がこの夜襲を計画した時、ダマスカス連合軍左翼後衛との距離が5リーグ(約20㎞)も離れており、ダマスカス連合軍左翼やナブルス軍の位置を正確に把握できていない状態だった。

 敵陣地の位置を正確に把握するためには少なくとも24時間はその場に留まらなければならなかったが、ダマスカス連合軍左翼とナブルス軍の合計は約35,000人なのに対してクレベール師団の兵力は約2,500人(ジュノー旅団含む)であり、クレベール師団は圧倒的劣勢な立場だったためそれは不可能だった。

ペレー戦隊のヤッファ港到着

 4月15日、ペレー少将がフリゲート艦「ジュノン(Junon)」、「アルセステ(Alceste)」、「クラジューズ(Courageuse)」、ブリッグ艦「サラミーヌ(Salamine)」、「アレーツ(Alerte)」を率いてヤッファ港に到着した。

 これらの艦はシドニー・スミス将軍が港の封鎖を解除したためアレクサンドリアを出航することができたのである。

 ペレー少将はすぐに24ポンド砲3門、 18ポンド砲1門、 12ポンド砲1門、そして弾薬や弾丸などの積荷を降ろした。

 このペレー戦隊は第一陣であり、アレクサンドリアで準備してブルラス湖に駐留していた第二陣はすでにシリアに向かって出航していた。