シリア戦役 39:シドニー・スミス将軍のアッコへの帰還とアッコ要塞からの4度目の出撃
Fourth sortie from the Fortress of Acre
モトゥアリー族の協力の申し出
スール(ティルス)周辺に住むイスラム教徒であるモトゥアリー(Motouàly)族は最盛期には10,000人がいたが、ジェザル・アフマド・パシャの弾圧によりそのほとんどが死に追いやられていた。
そのためモトゥアリー族の人々は潜在的にジェザル・アフマド・パシャの敵であり、1799年4月5日にボナパルト将軍率いるシリア遠征軍への協力を申し出た。
男性、女性、老人、子供など総勢900人ほどがフランス軍の前に集まった。
武装しているのは260人で、半分は騎兵、半分は歩兵だった。
ボナパルトは8人の指導者と会ってペリセ(軍服の上の羽織り)を着せ、彼らの先祖の領地(ティルス方面)を回復させることを約束した。
そして彼らは自ら兵士を集め、500騎の武装した騎兵を5月にダマスカスへ進軍させることを約束した。
シドニー・スミス戦隊のアッコへの帰還
1799年4月5日~6日にかけてシドニー・スミス将軍率いる2隻の戦列艦と1隻のフリゲート艦が捕らえた3隻のフランス船を連れてアッコ港に現れた。
彼は技術将校であるフェリポー大佐、ダグラス少佐、士官と砲手100人、そして4月1日に捕らえたフランス船に積載された武器や物資を上陸させた。
3隻のフランス船から24ポンド砲、16ポンド砲、8インチ迫撃砲が降ろされ、フリゲート艦アライアンス艦長ウィルモット中佐によって素早く、そして巧みにアッコの城壁に配備された。
そしてこれらの大砲の砲火によってフランス軍の地雷埋設作戦は大きく妨害され、フランス側の砲火は大幅に弱まり、堀の外縁壁(カウンタースケープ)の資材で塞がれた突破口の一掃作業は遅延された。
これらのすべてがアッコ守備隊の士気の維持に役立った。
補給面でもオスマン帝国領のキプロスとトリポリ(タラーブルス)から兵士、食糧、弾薬が継続的に供給されるよう手配されており、レヴァントの海はシドニー・スミス将軍が支配していたため、フランス軍がアッコへの兵士と物資の供給を断つためには大きな困難をともなうように見えた。
アッコ要塞からの出撃準備の開始

※アッコ要塞攻略における塹壕線図
戦列艦から降りたフェリポー大佐はアッコ要塞の現状を把握すると、ジェザル・アフマド・パシャに「この都市には危機が迫っており、いつ陥落してもおかしくない」ことを伝えた。
城壁からの砲火によって地上のフランス軍を抑え込んでいるように見えたが、フェリポー大佐はフランス軍が城壁角の塔の下に地雷を埋設しようとしていることを脅威に感じていた。
実際、フランス軍は地上で抑え込まれ、地下での作業も遅れていた。
しかし、アッコ要塞内では地上では優勢のように見えるが、フランス軍は地下で順調に地雷を埋設しているのではないかとの深刻な懸念が持ち上がっていた。
ジェザル・アフマド・パシャとしてはこれを阻止する必要があり、フェリポー大佐は坑道に部隊を送り込むために坑道内での窒息を防ぐ換気口を作ることを提案した。
ジェザル・アフマド・パシャはこの提案を受け入れ、最終的にイギリス軍の水兵と海兵隊の一団がフランス軍の坑道に突入して地雷の確保を行い、その間にジェザル・アフマド・パシャ軍は塹壕にいるフランス軍を攻撃することとなった。
これらが決まるとすぐに地上での出撃と坑道への部隊突入の準備が開始された。
アッコ要塞からの4度目の出撃
1799年4月7日未明、アッコ要塞内で1,500人ずつの3つの縦隊が配置された。
これらの縦隊は出撃を隠すために城壁の背後に隠され、第1縦隊はジェザル・アフマド・パシャの宮殿前、第2縦隊は海の門、第3縦隊は海岸沿いの端に配置され、イギリス軍はそれぞれの縦隊の南側に配置された。
夜明けとともに、3つの縦隊が攻撃を開始した。
各列の先頭には、船の乗組員と守備隊から選抜されたイギリス軍がおり、その場所の砲台にはイギリスの砲兵が配置されていた。
この出撃の目的が最初の塹壕陣地と前進した坑道の占領であることは直ちに認識された。
銃撃戦は非常に激しくなり、いつものようにアッコ守備隊側が最初に勢力を伸ばした。
この時フランス軍に砲弾は無く、マスケット銃での射撃と銃剣のみで戦うことを余儀なくされていた。
イギリス軍は急いで突破口を下り、立坑から坑道内に入って地雷を確保するために約30mの距離を走破しようとした。
しかし練兵場と塹壕線から、各縦隊に向けて非常に激しく銃火が浴びせかけられ、前進していた全員が死傷した。
※恐らく、練兵場とは練兵場の形をしたレダン(Redan)のことだろう。レダン(Redan)とは突出部のことであり、この場面でのレダンは粗朶や蛇籠などを積み上げ、いくつかの大砲を設置できる空間を確保して囲んだ塹壕線を強化するための突出部のことだと考えらえる。
中央縦隊は他の縦隊よりも頑強な態度を見せた。
彼らは坑道の入口を占拠するよう命令を受けており、その指揮を執ったのは喜望峰に最初に入城したトーマス・アルドフィールド(Thomas Aldfield)というイギリス人大尉だった。
※1795年にイギリスはフランスから喜望峰(ケープ植民地)を奪い取っている。喜望峰は南アフリカ南西部にあるフォールス湾西のケープ半島の先端に位置している。
この将校は勇敢な同胞数人と共に坑道の入り口へと駆けつけ、彼らの足元に倒れ込み、死亡した。
上官の死を見た部下たちは逃亡し、坑道の入り口に到達した兵たちは慌てて坑道内に立て籠もった。
フランス軍の最前列の部隊は銃剣を装着して前進し、ほぼ同時に塹壕予備軍も前進した。
フランスの塹壕陣地の向こう側はイギリス兵とオスマン帝国兵の死体で覆われた。
ジェザル・アフマド・パシャ軍は包囲・分断され、急速に元の場所に戻された。
この出撃でジェザル・アフマド・パシャ軍側は60人のイギリス人を含む800人の命を失った。
その後、捕らえた脱走兵から、砲台にはイギリス人が配置されシドニー・スミス将軍はフランス人技師フェリポーを含むフランス人の亡命者を同行させていたことが判明した。
シドニー・スミス将軍によるとこの作戦の失敗はオスマン帝国軍の衝動的さ(計画性の無さ)と騒々しさが原因であるとのことである。
つまり、奇襲作戦であるにもかかわらず騒々しかったためフランス軍に出撃がバレてしまい、出撃タイミングも衝動的に行われたため秩序立った動きができなかったということだろう。
そしてこの出撃の失敗によりその後もジェザル・アフマド・パシャ軍にとってフランス軍の地雷は依然として恐怖の対象となっていた。
アッコ要塞からの出撃が撃退された翌4月8日、イギリスのフリゲート艦「アライアンス」艦長ウィルモット中佐は、突破口に榴弾砲を設置していたところ、不運にもフランスのライフル兵に首を撃ち抜かれ致命傷を受け、死亡した。
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