シリア戦役 44:タボル山の戦い
Battle of Mount Tabor

※「タボル山の戦い(The Battle of Mount Tabor)」。ルイ=フランソワ・ルジューヌ(Louis-François Lejeune)画。1804年
タボル山の戦いの始まり

※1799年4月16日、クレベール師団の夜襲の空振り
1799年4月15日夜~16日未明にかけてクレベール師団はバザールに向けて行軍していた。
クレベール将軍は16日午前2時にダマスカス連合軍左翼後衛に夜襲を仕掛ける予定となっていたが、道は険しく案内人に惑わされて予定が狂った上、ダマスカス連合軍左翼の後衛が集結していたはずのバザールにその姿は無かった。
※サフォーレからバザールへの約20㎞の山道を行軍して午前2時前には到着しており、その後もバザールからアフラまでの約20㎞の道程を恐らく休憩も含めて5時間しかかかっていない。そのため「案内人に惑わされた」というのはアブドラ・パシャ軍後衛への夜襲に失敗した言い訳だったのではないかと考えられる。
クレベール将軍は「敵はエスドラエロン平原方面に向かったのだろう」と考え、タボル山方面に向かった。
すでに計画実行の時間である午前2時を回っていた。
しかしタボル山を迂回した先にもアブドラ・パシャの陣地は発見できなかった。
そのためクレベール将軍はアブドラ・パシャを追跡し、モレの丘(The Hill of Moreh)に沿って西に進んだ。
※モレの丘は「丘」という名称が付けられているが、実際は標高515mの山である。
クレベール将軍は「敵の作戦線は遮断されたはずであり、敵はタボル山とモレの丘の間に位置している」と考えていたのだろう。
しかし、ダマスカス連合軍左翼の連絡線はすでにナブルスに変更されており、ダマスカス連合軍左翼の先頭(イブラヒム・ベイ率いるマムルーク軍)はアフラの先にあるエル・ラジュン(El Legoun)の近くに野営地を設営していたのである。
ダマスカス連合軍左翼はすべて騎兵で構成されており平地を進んでいたため、徒歩で山道を進んだクレベール師団とは行軍速度が違っていた。
クレベール将軍の予想は完全に外れ、夜襲は空振りに終わった。
ナポレオンの出発
4月16日夜明け(午前6時)、ボナパルトはサフォーレを出発し、砲兵隊が越えることのできない山々を囲む峡谷に沿ってシュリン(Soulin)に向かった。
※シュリン(Soulin)村はかつて現在のシュラム(Sulam)村の位置に存在したシュネム(Shunem)村のことだと考えられる。
日の出の1時間後(午前7時)、クレベール将軍はようやくアフラ(Afula)村近くにあるアブドラ・パシャ軍の前衛(後衛)陣地を発見し、攻撃を仕掛けようとした。
昨夜出発してからおよそ半日が経過していた。
その時、モレの丘の見張りがクレベール師団を発見し、アブドラ・パシャ軍に警告を発した。
周囲は既に明るくなっており、警告により状況を把握する時間が十分にあったアブドラ・パシャは敵が少数であるのを見ると軍を騎乗させ、クレベール師団を包囲しようとした。
(恐らくアフラとエル・ラジュンの間にいた)アブドラ・パシャ軍主力が接近してくるのを見たクレベール将軍は廃墟を占拠してそこに救急車を停め、すぐに2つの歩兵方陣を形成した。
数万騎の騎兵で構成されるダマスカス連合軍左翼は瞬く間にクレベール師団を包囲した。
この時、ナブルス軍10,000人はラクダの背に乗せた小砲2門とともにアフラ村の南東にあるシュリン村を占拠しており、マムルーク軍が守る野営陣地がエル・ラジュン(El Legoun)近くにあった。
※エル・ラジュン(El Legoun)は現在のメギド(Megiddo)のすぐ南にかつてあった村「El Lajjun」である。エル・ラジュンの語源はレギオ(ローマ軍の駐屯地)であり、ローマ軍駐屯地の隣に作られて発展したのがエル・ラジュン村である。エル・ラジュン周辺地域は守りやすい地形となっている。
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※イブラヒム・ベイ率いるマムルーク軍が野営地に定めたエル・ラジュンと現在のメギドの位置関係(1940年代の地図)。
アブドラ・パシャの騎兵隊は幾度となく猛烈な突撃を仕掛けたが、すべて失敗に終わった。
勇敢さと冷静さを併せ持つクレベール師団のマスケット銃とブドウ弾によって、すべての突撃は激しく撃退されたのである。
タボル山の戦いにおけるナポレオンの計画

※1799年4月16日、タボル山の戦いにおけるナポレオンの計画
4月16日午前9時、ボナパルトはエスドラエロン平原全体を見渡すことができる最後の高地(クネイフィス(Khuneifis))に到着した。
※クネイフィス(Khuneifis)は現在のサリド(Sarid)であり、ピエール・ジャコタンがエジプト遠征時に作成した地図ではカルム・エンネフィセ(Karm Ennefiiceh)と名付けられている。
その場所からはシュリンとタボル山が見え、よく見える望遠鏡で観察すると約3リーグ(約12㎞)離れたタボル山の麓で、煙に包まれた中に2つの小さな方陣を形成している軍を判別することができた。
※タボル山の戦いはタボル山の麓で戦ったとあるが、実際の戦場はモレの丘の麓である。タボル山は「キリスト変容の地」や「荒野の誘惑」を受けた地とされていた。「荒野の誘惑」は「あらののゆうわく」と読み、イエス・キリストは悪魔(サタン)によってそこへ運ばれ、悪魔(サタン)を崇拝するなら目にした国土全体を差し出すと言われたという。そして旧約聖書の士師記によると、女預言者デボラが士師バラクとともにタボル山で10,000人のイスラエル人を集結させて山を下り、シセラが率いるカナン軍を打ち破ったとされている。このようにタボル山は伝説の多く残る地であるためナポレオンは「タボル山」の名前を使いたかったのだと考えられる。
それは明らかにフランス軍の師団であり、非常に大きな軍勢に攻撃され、四方から包囲されていた。
アブドラ・パシャ軍は約25,000騎の騎兵とみられ、その只中に2,000人のフランス兵が戦っていた。
さらに周囲を観察すると戦場からほぼ2リーグ後方のナブルス(Naplouze)山麓(エル・ラジュン(El Legoun)近く)に築かれたマムルーク軍が守る野営地も発見した。
この時、ボン師団の位置は広大な戦場を占拠するアブドラ・パシャ軍の後方に位置していた。
ボナパルトは師団を2個大隊と1個連隊からなる3個縦隊(歩兵2個縦隊、騎兵1個縦隊)に編成し、互いに400ファゾム(約800m)離れて行軍させ、ナブルスとアブドラ・パシャ軍との連絡線を遮断するように軍を機動させた。
歩兵縦隊はそれぞれランポン将軍とヴィアル将軍が率い、騎兵縦隊はルトゥルク将軍が率いた。
この時のボナパルトの計画は、ランポン将軍とヴィアル将軍が率いる2個歩兵縦隊で2個方陣を形成してクレベール師団を攻撃しているアブドラ・パシャ軍を振り向かせ、敵を野営地から引き離し、2門の軽砲を有するルトゥルク騎兵隊でエル・ラジュン(El Legoun)近くのマムルーク軍が守る野営地を襲う。
アブドラ・パシャ軍を十字砲火で撃破した後、ランポン旅団でヌール(Noures)を占領し、ヴィアル旅団で物資のあるジェニン(Genin)への退路を断ち、ヨルダン川へと追い込み、ミュラ旅団がジェスル・エル・マジャミ橋でその退却を阻止するというものだった。
エスドラエロン平原は非常に肥沃であり、この時期は収穫物で覆われ、小麦はすでに6ピエ(約190cm)の高さになっていた。
3個縦隊は背の高い小麦の中を行進したためアブドラ・パシャ軍に全く気付かれずに接近することに成功した。
クレベール師団の危機と決意
戦いが開始されてから数時間が経過していた。
クレベール師団は圧倒的に劣勢であり、自師団のみではアブドラ・パシャ軍を完全に撃退することはできない状況だった。
兵損失は僅かだったが、このままでは今日の戦いで弾薬が尽きると考えられ、明日、師団は銃剣で騎兵突撃を受け止めることを余儀なくされるだろうと予想された。
クレベール師団の熟練兵たちは自らの陣地の危険性を十分理解しており、最も勇敢な者でさえ大砲を放棄して、ナザレの険しい高地へと突破口を開くことを望み始めた。
救援は来ないと考えていたクレベール将軍はその後の行動について熟考した。
時間が経つにつれてクレベール師団の弾薬は尽き、兵士たちは飢えと喉の渇きに苦しだ。
クレベール将軍もアブドラ・パシャもクレベール師団の状況は過酷であり、限界は間近に迫っていると見ていた。
その時、突然クレベール師団の兵士数人が「あの小伍長だ!」と叫び声を上げた。
側近たちがクレベール将軍にその叫び声を伝えに来たが、将軍は激怒して救援はあり得ないことを示し、(この状況を打破するための)議論を続けるよう命じた。
しかしこれまでのナポレオンの戦術を見てきた熟練兵たちは同じ叫び声を繰り返した。
彼らは小麦畑の中で銃剣が光るのを見たと思ったのだ。
クレベール将軍はアブドラ・パシャ軍を越えて辺りを見渡せる高台に登り、望遠鏡を使って確認した。
しかし銃剣どころかその煌めきさえ見えず小麦畑が広がっているのみだった。
側近たちと兵士たちは救援がすぐそこに来ていると推測したが、クレベール将軍は何も発見できなかったため兵士たち自身も見間違いだったと確信し、師団に残されたかすかな希望は消え去った。
救援は来ないと判断したクレベール将軍は、大砲と負傷兵を放棄して突破を強行するために縦隊を編成するよう命じた。
※ナポレオンが野営したサフォーレ近くの野営地からクレベール師団が戦っているエスドラエロン平原の戦場まで約20㎞である。ナポレオンが野営地を出発したのが午前6時、野営地から約10㎞のところにあるエスドラエロン平原を見渡せる最後の高地に到着したのは午前9時である。そこから再編成を行った後に敵に気付かれないよう行進して最後の高地から約8㎞離れた戦場に到着することとなる。背の高い小麦畑の中を通り、敵に気付かれてはいけないため行軍速度は遅くなったと予想される。
タボル山の戦い

※1799年4月16日、タボル山の戦い
クレベール将軍が包囲の突破を決断している頃、ランポン将軍とヴィアル将軍が率いる縦隊はエスドラエロン平原の戦場のすぐそばにまで迫ってきており、ルトゥルク騎兵隊は戦場から約2リーグ(8㎞)離れたマムルーク軍が守る野営地を襲撃しようと向かっていた。
ボナパルトはアブドラ・パシャ軍の退路を断つ丘陵地帯に到達するため、行軍を隠すようにすることに重きを置いていた。
しかし突然アブドラ・パシャ軍の全体が動き出し、クレベール師団に迫っているのを見た。
この時、クレベール師団はアブドラ・パシャ軍の包囲の一方を突き崩そうと方陣から縦隊に陣形を変化させていたのである。
数人の側近が馬から降りて望遠鏡で敵を観察すると、敵が総攻撃の準備を整えていること、そしてクレベールの陣形が平静を失っていることがはっきりと見えた。
クレベール将軍は方陣から攻撃縦隊に隊列を整えているところだった。
この一瞬一瞬は貴重だった。
クレベールは30,000の兵に包囲され、その半数以上が騎兵だった。
わずかな遅れも致命傷となりかねなかった。
ボナパルトはクレベール師団から半リーグ(約2㎞)の距離まで到達すると方陣を形成し、土手に登るよう命じた。
ヴィアル将軍とランポン将軍は歩兵方陣を形成すると別々の方向に行軍し、クレベールの師団とともに各辺2,000ファゾム(約600m)の正三角形の3つの角を形成するように機動した。
兵士たちの頭部と銃剣は敵味方ともに即座に視認され、同時にマスケット銃での一斉射撃によって方陣の動きが露呈した。
これが合図となりクレベール師団は息を吹き返した。
突撃縦隊の隊形をとっていたクレベールの兵たちは陣形をすぐに方陣に戻し、銃剣の先に帽子を掲げて歓喜を表現した。
続いて敵味方判別のための12ポンド砲での一斉砲撃が行われ、アブドラ・パシャ軍は驚愕して停止した。
最も機敏で最も近くにいたイブラヒム・ベイ率いるマムルーク軍は、この新たに出現したフランス兵を偵察するために全速力で駆け出した。
ナブルス軍も全軍でナブルスへの道を塞ぐ縦隊を見て警戒し、マムルーク軍と同じく新たに出現したフランス兵の方に向かった。
3つのフランス方陣は一瞬停止し、連携した。
ルトゥルク将軍率いる300騎の分遣隊がマムルークの野営地を奇襲して略奪し、負傷兵を捕らえた。
そしてテントに火を放ち、恐怖を植え付けた。
アブドラ・パシャ軍の騎兵隊の一部が方陣の射程圏内にまで接近したが、ブドウ弾を受けて撤退した。
そして三角形の中心にアブドラ・パシャ軍がいる配置となった。
※恐らくアブドラ・パシャはクレベール師団の包囲を解いて後方のフランス軍に対応しようとしたのだと考えられる。
しかし十字砲火に晒されたためこの攻撃をどの部隊で阻止するべきかわからなくなり、マムルーク軍が守っていた野営地がフランスの騎兵隊に襲われてテントが燃えるのが見え、野営地やナブルスへの退却路を遮断されたのを見ると、アブドラ・パシャ軍は恐怖に襲われて混乱に陥った。
クレベール将軍はこの好機を逃さず進軍を開始した。
クレベール師団の前進は2つの方陣の支援を受けてアブドラ・パシャ軍に大きな被害とさらなる混乱をもたらした。
アブドラ・パシャ軍は総崩れとなり、瞬く間に無秩序に敗走した。
アブドラ・パシャ軍の惨状を見た歩兵(ナブルス軍)はジェニン方面へ、騎兵(ダマスカス連合軍左翼とマムルーク軍)はそれぞれヨルダン川方面(ヌール(Noures)方面)に逃亡した。
クレベール師団はシュリン村を占領することに成功し、ボナパルトはランポン将軍とヴィアル将軍に追跡を命じた。
クレベール師団とランポン旅団はアブドラ・パシャ軍を追跡し、ヴィアル旅団はナブルス軍を追跡した。
一方、ルトゥルク騎兵隊はマムルーク軍が守る野営地を襲撃して400頭以上のラクダと食糧を全て奪取し、多数の兵士を殺害し、250人を捕虜にしていた。
アブドラ・パシャ軍は午前中の様々な突撃で多くの兵士を失い、撤退の際にもさらに多くの兵士を失った。
アブドラ・パシャ軍の追跡
夜、アブドラ・パシャ軍はクレベール師団に追跡されながらもダマスカスへの唯一の退却路であるジェスル・エル・マジャミ橋にたどり着くことに成功した。
しかし最近降り続いた雨で水位が上昇しており、浅瀬を渡るのも困難な状況だった。
しかも我先にと逃れようとする中で大きな混乱が生じており、橋は混雑していた。
そのため逃亡を急いだ多くの騎兵が無謀にも増水したヨルダン川を渡ろう試みて数千人が溺死した。
この日、ボナパルトはヌール近くで野営をし、クレベール師団はアブドラ・パシャ軍を追ってヨルダン川まで追跡した。
クレベール将軍は総司令官の天幕で眠り、翌17日午前3時過ぎにヨルダン川沿いにいた師団に合流するために出発した。
一方、ナブルス軍を追うヴィアル将軍はジェニンにまで到達したが、そこで夜が訪れた。
ナブルス軍はすでにナブルス山地に逃げ込むことに成功しており、ヴィアル将軍はそれ以上の追跡を諦めた。
タボル山の戦いでのアブドラ・パシャ軍の損害は戦死者約6,000人、捕虜約500人と言われ、フランス側の損害は、クレベール師団の戦死者及び負傷者は250人~300人であり、ボナパルト率いる縦隊の戦死者及び負傷者は3人~4人だったと言われている。
※セントヘレナのナポレオンによると、アブドラ・パシャ自身の報告ではダマスカス連合軍の損失は5,000人以上とされていたそうである。そのため、ナブルス軍の損失は1,000人ほどだと考えられる。
ミュラ将軍のティベリア占領
一方、未だ休息をとっていないミュラ将軍はベナト・ヤコブ橋の野営地を離れ、約35㎞歩いた先にあるティベリアに向かっていた。
そこにはダマスカス連合軍が放棄した軍需品と食糧があった。
ティベリアにあった食糧だけで軍を6ヵ月間養うのに十分な量があったと言われている。
ボナパルトの計画ではミュラ旅団がジェスル・エル・マジャミ橋でアブドラ・パシャ軍の退路を遮断することになっていたが、ミュラ将軍は敗走する敵軍が橋を渡る前までにジェスル・エル・マジャミ橋に到着することはできなかった。
エスドラエロン平原の村々の懐柔とクレベール師団によるヨルダン川での防衛線の構築
4月17日朝、ボナパルトは、これまでジェザル・アフマド・パシャを支援していたヌール(Noures)、ジェニン(Genin)、シュリン(Soulin)の村々を見せしめとして焼き払い、そこにいる者全員を銃剣で殺すよう命じた。
しかし、これまで慈悲を求めていた住民たちは武器を手に取って反抗した。
ボナパルトは輸送隊の護衛兵を虐殺して略奪したことを非難したが、情状酌量の余地があると村々を焼いて略奪したことで復讐を中止し、平穏に山岳地帯に留まるならば保護することを約束した。
ナブルスの代表者たちは人質を差し出して約束を受け入れた。
その後、ボナパルトはナザレに戻った。
この日、クレベール師団はヨルダン川を越えてダマスカス連合軍を追跡し、大きな戦果を得た。
そして夕方、ボナパルトはクレベール将軍にヨルダン川を再度渡ってこの川を監視するよう命じた。
クレベール将軍はバザール(Bazar)に本部を置いてベナト・ヤコブ橋とジェスル・エル・マジャミ橋、ツファット砦とティベリア砦を占領し、ヨルダン川で防衛線を形成した。
※ティベリア砦の正確な位置は不明である。候補としては、1、ティベリアス湖西岸の都市ティベリアにある砦、2、ジェスル・エル・マジャミ橋西詰にある隊商宿、3、ベルヴォア要塞(Fortaleza de Belvoir)跡にある村カウ・カブが挙げられる。ベルティエの回想録に橋の側という記述があるため、2のジェスル・エル・マジャミ橋西詰にある隊商宿が最も可能性が高いだろう。
アブドラ・パシャ軍の敗因と勝算
エスドラエロン、あるいはタボル山の戦いの結果、騎兵25,000騎と歩兵10,000人がフランス軍4,000人に敗北し、ダマスカス連合軍とナブルス軍の野営地はすべて占領されて物資は奪われ、ダマスカス連合軍は混乱の中ダマスカスへ、ナブルス軍はナブルス山脈へと敗走した。
アブドラ・パシャにとって、ツファットやティベリア、エスドラエロン平原で敗北するとは思いもよらないことだった。
そして、この大敗北によりアブドラ・パシャはしばらく身動きが取れないだろうと考えられた。
アブドラ・パシャの敗因はエル・アリシュからカクーンまでの戦いで学ばず、フランス軍の戦い方について有効な対策をとっていないことだった。
マムルークの長であるムラード・ベイはシュブラ・キットの戦いの敗北で学び、ピラミッドの戦いでは方陣が完成する前に迅速にフランス軍を打ち破るという作戦を思いつき、セドマンの戦いではピラミッドの戦いの敗北で学び、大砲によって方陣を崩そうとしていた。
両者ともフランス軍に敗北したが、その点でムラード・ベイの方が優れた戦術眼を持っていたと言えるだろう。
もしアブドラ・パシャに勝機があったとすれば、それは「決戦」を受け入れず「持久戦」を行うことだっただろう。
しかし、陥落の危機が迫っていると考えられるアッコを早急に救う必要があったため、「持久戦」という選択はできなかっただろうとも想像できる。
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