シリア戦役 51:アッコ守備隊による城壁と突破口の間への塹壕線の構築とカッサーノ・ダッタの戦い後のイタリア戦線の状況
The situation on the Italian front after the Battle of Cassano d'Atta

アッコ要塞への偵察とアッコ守備隊の抵抗

アッコ要塞包囲戦(1799年)の地図

※アッコ要塞包囲戦(1799年)の地図

 1799年5月1日、タントゥーラで降ろされた18ポンド砲4門がアッコ前の砲台に配置された。

※タントゥーラ(Tantourah)は現在のドル(Dor)。ヤッファの北約65㎞ほどのところにあった港町。

 そして大きな古い塔に向かって砲撃が開始された。

 夕方、歩兵20人が城壁内に侵入して塔に留まるよう命じられた。

 しかしアッコ守備隊は堀に築いた塹壕を利用して背後から突破口に向かって発砲した。

 歩兵たちは梯子をかけて突破口を登ったが塔から城壁の内側へ侵入するのは不可能だと悟り、撤退を余儀なくされた。

 歩兵たちが突破口の塔を登ろうとしていたまさにその時、フランス軍は大部隊を率いて右翼へ出撃した。

 2個歩兵中隊が、非常に効果的かつ迅速に突撃し、アッコ守備隊を分断することに成功した。

 そして、その場の砲火で防がれなかった者たちはすべて海に追い込まれ、泳いで逃げることを余儀なくされた。

 アッコ守備隊の2個歩兵中隊は突破口を占拠することに成功したが、深追いし過ぎたため撤退に時間がかかり、多くの兵を失った。

 この日のアッコ守備隊の損失は死傷者約500人だったのに対し、フランス軍の戦死者は12人~15人、負傷者は30人だったと言われている。

 その後、ボナパルトは東側城壁に2つ目の突破口を作るよう命じ、分遣隊に堀に沿って行進させ、作業員に堀の外縁壁(カウンタースケープ)を爆破するよう命じた。

アッコ城壁前の塹壕での戦い

 5月2日、18ポンド砲は火を噴き続け、塔は廃墟と化し、堀の通路に面していた側面も壊滅状態となっていた。

 アッコ側の城壁に配備された大砲は1門を残して沈黙していた。

 アッコ守備隊はこのままでは城壁を守ることはできないと感じていた。

 そのため城壁へ続く堀の外縁壁(カウンタースケープ)に作られた傾斜路(突破口)を塹壕で塞ぎマスケット銃で防御することによって突破口への接近を阻止しようとした。

 これはフランス軍を困難な状況に陥れた。

 両軍の作業員たちは、深さ2~3トワーズ(約4~6m)の土塊を隔てて並行して塹壕を掘り進め、互いに向かい合った。

 フランスの工兵がアッコ守備隊側の塹壕の側面に到達したと判断すると作業員たちが出発してアッコ守備隊の塹壕を切り開き、その先にいる者すべてを虐殺するか捕虜とした。

 アッコ守備隊もフランス軍の戦術を学び、同様の作戦を実行した。

 アッコ守備隊の塹壕陣地は3度にわたって武力で占領され、部分的に埋め戻されたが、塹壕陣地全体を見下ろす塔に配置されたライフル兵によって側面から攻撃されたため、城壁と突破口の間の塹壕陣地を保持することは不可能だった。

 そのため自軍の塹壕をアッコ守備隊の塹壕に繋いで攻め込む体制を堅持する必要があった。

 5月3日、シドニー・スミス将軍は海軍長官宛に「敵は昨日(5月2日)の朝から2度にわたりイギリス軍の塹壕を突破しようと試みましたが、いずれも撃退され、損害を被りました。現在、塹壕には大砲が設置され、ほぼ完成しています。こうして、包囲戦46日目にして、敵が塹壕を開いた最初の日よりも防衛状態が強化されたことに満足しています。敵は引き続き効果的に攻撃を続け、突破口は拡大していますが、守備隊は数回の出撃で時折敵と接近したことから、攻撃に抵抗できるという自信を深めており、その準備は整っています。」と書簡を送っていることから、フランス軍が苦戦していることが窺える。

カッサーノ・ダッタの戦い後のイタリア戦線の状況

1799年5月初め頃のイタリア戦線の状況<第2次対仏大同盟戦争>

※1799年5月初め頃のイタリア戦線の状況<第2次対仏大同盟戦争>

 カッサーノ・ダッタの戦いでの敗戦後、ピッツィゲットーネのラボワシエール(Laboissière)将軍は師団を率いてカザルプステルレンゴを経由してピアチェンツァへ向かい、ヴィクトール将軍の残したルモワーヌ(Lemoine)中将率いるロディ守備隊をパヴィアとヴォゲーラを経由してジェノヴァ方面へ向かわせた。

 この時、ラボワシエール将軍はピッツィゲットーネに一部兵力を残して撤退した。

 ピッツィゲットーネはその後、ホーエンツォレルン旅団に東側を、アッダ川を渡ったゼッケンドルフ旅団に西側を包囲されることとなる。

 モロー将軍とグルニエ師団はノヴァラ(Novara)を経由してヴェルチェッリへ向かった。

 ヴィクトール師団はグルニエ師団に続いてミラノを出発したが、ヴィジェヴァーノ(Vigevano)を経由してセージア川の背後へ向かうよう指示された。

 5月1日、スヴォーロフ元帥率いる連合軍はスフォルツェスコ城の包囲のためにラターマン少将率いる約4,500人の兵力を残してミラノを出発した。

 連合軍は主にポー川へ進軍し、前衛部隊であるオット師団約4,500人はパヴィアへ進軍した。

 パヴィアでティチーノ川に架かる橋を修復して、早急にヴァレンツァの対岸とカンディアを占領する必要があったのである。

 同じく前衛部隊であるヴィカソヴィッチ旅団約6,000人は税関橋があるボッファローラ(Boffalora sopra Ticino)に進軍し、モロー将軍を追跡した。

 メラス将軍率いるツォプ師団、カイム師団、フレーリヒ師団はメレニャーノ(Melegnano)を経由してロディへ向かい、ローゼンベルク将軍率いるローゼンベルク師団とフェルスター(Förster)師団はサン・ドナート(San Donato)、メレニャーノ、サンタンジェロ(Sant'Angelo)を経由して渡し船のあるパルパネーゼ(Parpanese)に向かった。

 これらメラス師団とローゼンベルク師団の合計は約36,000人を数えた。

 メラス師団はロディ占領後にピアチェンツァへ向かい、ローゼンベルク師団の前衛旅団を率いるバグラチオン将軍はパルパネーゼでポー河を渡った後、ポー河沿いを下ってピアチェンツァへ向かう計画となっていた。

 そしてフェラーラ周辺地域にいるポー河右岸側で支配を固めるには兵力が少ないクレナウ旅団をアペニン山脈を越えてジェノヴァへ行く道があるピアチェンツァへ進軍させた。

 スヴォーロフとしてはモローを追いつつイタリア半島のナポリ方面軍の合流を防ぐ必要があり、ピアチェンツァは合流を防ぐための重要地点だった。

 スヴォーロフはクレモナに残された資材を使ってポー河に3つの舟橋をすぐに建設するよう各師団長に要請した。

 2つはピアチェンツァ近郊、1つはパルパネーゼに建設される予定となっていた。

 そしてこれらの他、スヴォーロフ元帥はスイス側を監視するためにコモ湖にローアン将軍率いる3,000人の分遣隊、アッダ川上流にシュトラウス将軍率いる5,000人の分遣隊を派遣した。

 スイス方面に派遣された分遣隊はそれぞれ要塞を占領するよう命じられた。

 この日、フランス軍約600人が立て籠もるオルツィヌォーヴィ(Orzinuovi)要塞が降伏した。

 ブレシアの南西約25㎞のところにある要塞を包囲していたアルカイニ(Alcaini)将軍率いる7個大隊は大砲40門を奪取して前線に向かった。

5月1日時点でのスヴォーロフ元帥の計画

1799年5月初め時点でのスヴォーロフ将軍のイタリア征服計画

※1799年5月初め時点でのスヴォーロフ将軍のイタリア征服計画

 スヴォーロフは完成した計画を承認のためウィーンに送り、ライン軍とチロル軍の司令官にも写しを送った。

 計画の骨子は以下の通りだった。

 後方の要塞(ペスキエーラ要塞、マントヴァ要塞、オルツィヌォーヴィ要塞、スフォルツェスコ城)が陥落するのを待たずに、軍の小部隊に要塞の包囲を任せ、残りの部隊はマクドナルの軍がモロー軍に合流するのを阻止しながら攻勢を継続する。

 この目的のため、ティチーノ川とポー川を渡り、マクドナルの軍に進撃してこれを撃破し、その後トリノとモロー軍に進撃する。

 包囲軍(クレイ師団)間の連絡は2個分遣隊によって維持される。

 マントヴァとペスキエーラを占領した後、包囲軍の主力は前進してトルトナを包囲し、もう一方の分遣隊はイギリス艦隊の支援を受けてジェノヴァを占領する。

 北イタリアはスイスから来るチロル軍の2個分遣隊によって守られ、同時にイタリア軍(スヴォーロフ軍)はこの軍を支援してライン川上流域とイン川上流域からフランス軍を追い払う。

 チロル軍司令官ベルガルド将軍はグラウビュンデン州に移動し、カール大公はライン軍を率いてバーゼルとコンスタンツの間を進軍し、マッセナの背後につく。

 その後、イタリア軍とチロル軍は2つに分かれて進軍する。

 1列目はトゥーン湖とベルン方面へ、もう1列目はローヌ川上流域とレマン湖北岸に沿って進軍する。

 この計画を見た参謀長シャストレー将軍は驚き、スヴォーロフに「いったいいつこのようなことを考えたのか?」と問いかけたと言われている。

カッサーノ・ダッタの戦い後のスイス戦線の状況

 5月初め、マッセナは地図を俯瞰して見ていた。

 モローがカッサーノ・ダッタの戦いで敗北したことでドナウ方面軍の右翼は危険に晒されていた。

 イタリア方面を占領していた部隊は、ヴァレー州北部を経由して撤退するかザンクト・ゴッタルド峠を経由して撤退するかの選択肢があったが、5月になったにもかかわらずザンクト・ゴッタルド峠のルートはほぼ通行不能だった。

 ヴァレー州北部を通るルートは地元住民たちがフランス軍に敵愾心を抱いており、疲労と飢えで疲弊した隊列の落伍兵たちが殺害されることが考えられた。

 そのためマッセナはぎりぎりまでイタリア方面からの撤退を行わず、ジンプローン(Simplon)とザンクト・ゴッタルド峠の防衛範囲が最小限となる地点までの後退許可をフランス政府に求めた。

 この時点でのスイス国内の情勢を考慮すると、攻勢を受けて撤退した場合はスイス国民軍の反乱と離反を招く恐れがあるが、自主的に撤退した場合は慎重な措置と見られ、いかなる惨事にもつながらないだろうと考えられた。

 そして同時に、少なくとも1ヵ月間はライン川のみで防衛を行う許可も求めた。

 北からはカール大公軍に圧迫され、東ではホッツェ師団とベルガルド将軍率いるチロル軍が合流しようと動いており、南ではイタリア方面軍がスヴォーロフ軍に敗北し、防衛しやすい地形とは言えスイスは北、東、南の3方を連合軍によって囲まれようとしていた。

 状況は刻一刻と悪い方向に進んでいた。

イタリア方面軍のティチーノ川の渡河と連合軍のポー河の渡河

 5月2日にはモロー将軍とグルニエ師団の先頭がティチーノ川を渡ったが、川に沿って防衛線を構築することなくすぐにセージア川の背後にあるヴェルチェッリ(Vercelli)へ向かった。

 ティチーノ川は単なる急流であり、嵐の時のみ障害となると考えられ、防衛地点を限定し防衛線を短縮できるものではなかった。

 ティチーノ川で防衛線を構築する利点としては、ドナウ方面軍と繋がることができ、スイス方面からはザンクト・ゴッタルド峠、フランス方面からはモン・スニ峠を通じて増援を受け取ることができることであるが、欠点としてはポー河南岸側が無防備となることだった。

 そのためモロー将軍はティチーノ川を放棄したのである。

 モロー将軍はティチーノ川を渡る際、橋を破壊して撤退した。

 この時点でイタリア方面軍は広域に分散することを余儀なくされていたが、モロー将軍はこの状況を覆すことを計画していた。

 マクドナル将軍率いるナポリ方面軍とモンリシャール師団をイタリア半島から呼び戻し、協力して連合軍と相対しようとしていたのである。

 モロー将軍はマクドナル将軍にすぐに書簡を送ったが、ナポリ方面軍と合流するまでの間、スヴォーロフ元帥率いる連合軍主力を引き付け時間を稼ぐ必要があった。

 一方、連合軍は5月2日午前3時にツォプ師団の先頭がロディに到着した。

 ツォプ将軍はすぐにカザルプステルレンゴに向かい、その後にカイム師団とフレーリッヒ師団が続いた。

 カイム師団はピッツィゲットーネの降伏を早めるためにゼッケンドルフ旅団とホーエンツォレルン旅団が包囲しているピッツィゲットーネに派遣され、フレーリッヒ師団はパヴィアへ進軍する予定となっていたが、ツォプ師団に続いてピアチェンツァに向かって進軍した。

 そしてこの日、ツォプ師団の先頭が渡し舟でポー川を渡り、右岸に沿って進軍してピアチェンツァに到着した。

 ピアチェンツァのラボワシエール旅団はすでにジェノヴァ方面に撤退していた。

 この時、ペリニョン中将指揮下のラポイペ将軍率いるリグーリア共和国軍5,000人がジェノヴァにおり、ラボワシエール将軍はペリニョン将軍の指揮下に入った。

 パルパネーゼでポー河を渡ろうとしたローゼンベルク師団とフェルスター師団は、クレモナからの資材の輸送が遅れたため立ち往生し、その後、無駄に時間を浪費させることとなった。

 2つの前衛部隊であるヴィカソヴィッチ旅団とオット師団はティチーノ川で舟橋の建築を開始した。

イタリア方面軍のセージア川からの撤退とモロー将軍によるイタリア方面作戦の全体像

1799年5月初旬、モロー将軍によるイタリア方面作戦の全体像

※1799年5月初旬、モロー将軍によるイタリア方面作戦の全体像

 5月3日、モロー将軍とグルニエ師団はヴェルチェッリに到着し、ヴィクトール師団もセージア川の背後に到着していた。

 そしてセージア川で防衛線を構築し連合軍を迎え撃とうとした。

 しかしピエモンテ共和国の首都トリノで反乱が発生したとの急報が入ったため、モロー将軍はセージア川の放棄を余儀なくされグルニエ師団とともにトリノに急行した。

 モロー将軍はトリノの反乱を鎮圧後、イタリア方面軍の右翼をアレクサンドリアとトルトナ、中央をカザーレ・モンフェラートとヴァレンツァ、左翼をヴェッルーアに配置することを構想していた。

 そのためヴィクトール師団はポー河を渡ってカザーレ・モンフェラート(Casale Monferrato)へ向かうよう命じられた。

 モロー将軍はセージア川での防衛を諦め、北イタリア最大河川であるポー河とアペニン山脈を利用して防衛線を構築しようとしたのである。

 それに加え、増援と物資を運ぶ道となるモン・スニ峠とタンド峠の防衛も重要であり、この地域を担当する部隊を防衛状態に置いた。

 イタリア方面における全体戦略としては、左翼(ドナウ方面軍の一部とイタリア方面軍の一部)をヘルヴェティア山脈(現在のヴァレー州)とトリノの城塞、中央(イタリア方面軍)をポー河、右翼(リグーリア共和国軍)をアペニン山脈に展開することが重要であると考えられた。