シリア戦役 58:バッシニャーナの戦い【イタリア戦線】
Battle of Bassignana

ローゼンベルク将軍による命令無視とムガロネでの渡河の決定

1799年5月10日~11日のポー河北岸側にいるローゼンベルク師団の動向<第2次対仏大同盟戦争>

※1799年5月10日~11日のポー河北岸側にいるローゼンベルク師団の動向

 コンスタンティン大公を擁するローゼンベルク師団がヴァレンツァに向かっている途中、ムガロネ(Mugarone)村の近くを流れるポー河には大きな島があり、渡河地点に適していることを発見した。

 1799年5月10日、ヴァレンツァのフランス軍が撤退したという情報は誤報であるという知らせがスヴォーロフの元に届けられた。

 スヴォーロフはヴァレンツァの占領を諦めてトルトナに集結するよう命じ、オーストリア皇帝に下記のような書簡を送った。

「我が軍のスピードのおかげでトルトナを制覇することができました。敵は2,000~3,000人の兵士しか要塞に避難させる時間がありませんでした。ノヴィにあった弾薬はトルトナとアレクサンドリアに残されました。アレッサンドリア・・・我々はここを占領し守らねばなりません。ジェノヴァ軍は5,000~6,000人ほどしかおらず、現実的に考えて最強の部隊とは言えません。敵は塹壕を掘る可能性があり、特に必要な時間を与えれば攻撃は困難になるでしょう。ヴァレンツァ・・・重要になるかもしれませんが、今のところはそうではありません。その前に偽の攻撃を仕掛けるだけで十分でしょう。」

 スヴォーロフにとってこの時点でヴァレンツァは重要ではなかったが、フランス軍はアレクサンドリアへ集結しようとしておりヴァレンツァを占領しているフランス兵は1,000人以下であるという情報を得ており、ムガロネ島を経由すれば比較的容易にポー河を渡河できると考えていたローゼンベルク将軍は、総司令官からの集結命令にもかかわらずそれを無視する決断をした。

 5月11日、ローゼンベルク将軍は師団を分割し、2個大隊をヴァレンツァに向かわせ、チェバロフ旅団にムガロネ島へ渡るよう命じた。

 この日、2度目、3度目の厳しい集結命令がローゼンベルク将軍の元に届けられたが、これらは無視された。

 ローゼンベルク将軍の計画はヴァレンツァ要塞を北側から2個大隊で攻撃、そしてカザーレ・モンフェラートをヴィカソヴィッチ旅団で攻撃し、ムガロネ島を経由したローゼンベルク自らが率いる渡河部隊でヴァレンツァとアレクサンドリアの連絡線を遮断しヴァレンツァを占領するというものだったのだろう。

 ローゼンベルク将軍は約10,000人(ヴィカソヴィッチ旅団を除く)の兵力を指揮していたが、カンビオで渡河しサーレに向かうよう命じられた別動隊であるフェルスター師団を除くと残る手元兵力は5,000人~6,000人だけだった。

 この時、ポー河北岸側とポー河南岸側のタナロ川及びボルミダ川以東は連合軍が支配する領域となっており、タナロ川及びボルミダ川以西のポー河南岸とアペニン山脈から南側はフランス軍が支配する領域となっていた。

 加えてボルミダ川東側では、連合軍はアレクサンドリアとジェノヴァの連絡線の1つを遮断しようと動き出している段階でありアレクサンドリアの近くに接近してはいたがボルミダ川とタナロ川に守られている強固な要塞を本格的に攻撃する準備はまだ整っていなかった。

 ローゼンベルク将軍が仮にヴァレンツァの包囲に成功したとしてもそれは単独でのことであり、連携が無ければアレクサンドリアなどの周辺地域からヴァレンツァに支援が行われ、ポー河を渡河した部隊はポー河という障壁に阻まれて撤退すら危うくなってしまう。

 しかもスヴォーロフは集結を命じ、ローゼンベルクはそれを無視している状況であるためスヴォーロフ本体からの支援は望めないことは容易に想像できる。

コンスタンティン大公とローゼンベルク将軍によるポー河の夜間渡河

1802年のバッシニャーナ周辺地図

※1802年のバッシニャーナ周辺地図

 前衛であるチェバロフ旅団がムガロネ島への渡河を完了させ、師団主力はムガロネ島の北の対岸に集結した。

 5月12日未明、コンスタンティン大公とローゼンベルク将軍はムガロネ島の北の対岸にいた。

 コンスタンティン大公はローゼンベルク将軍にムガロネ島から南の対岸への渡河を直ちに開始するよう進言した。

 ローゼンベルクは師団主力はまだ集結中であるため後続部隊の到着を待つ方がよいと返答した。

 コンスタンティン大公は激怒してローゼンベルクを批判した。

 この批判は不当なものだったがローゼンベルク将軍はコンスタンティン大公の激しい感情に押されて攻撃命令を下した。

 チュバロフ率いる前衛隊は腰まで水に浸かりながら南岸へ渡り、ローゼンベルク師団の主力部隊は灯りも点けず馬のいななきを防ぐために口を縛ってムガロネ島への渡河を開始した。

 そしてバッシニャーナのフランス軍前哨基地に接近し、フランス軍の戦線から100~200メートルの距離で夜明けを待った。

 ほぼ同時にカザーレ・モンフェラートではヴィカソヴィッチ旅団が攻撃準備を開始しており、ヴァレンツァでは2個大隊がポー河の島への渡河を開始していた。

 ポー河左岸側の連合軍の進軍に気付いたモロー将軍はヴァレンツァ守備隊に防御を固めさせ、ムガロネでは標高の低い前哨基地での戦闘を避けるよう命じてバッシニャーナの分遣隊を速やかにペチェット(Pecetto)へ撤退させた。

 そしてヴァレンツァからサン・アントニオまでの山地にグルニエ師団を展開し、ヴィクトール将軍にすぐにアレクサンドリアを出発するよう命じた。

 この時、モロー将軍はムガロネでの渡河はあからさま過ぎるため陽動攻撃だろうと考え、ヴィクトール将軍に師団の多くをアレクサンドリア周辺地域に残すよう指示していた。

 モロー将軍は迅速に有利な地点に布陣し、コンスタンティン大公は標高の低い不利な地点から攻撃を行うことを余儀なくされることとなった。

バッシニャーナでの戦闘の開始

1772年のバッシニャーナ周辺地図

※1772年のバッシニャーナ周辺地図。ぺチェットとサン・アントニオの位置関係が分かる。サン・アントニオは 地図の中で"Bricco di S.Antonio" と書かれている。 "Bricco" とは岩山や断崖という意味である。そのためサン・アントニオは岩山にあることが分かる。

 5月12日朝、連合軍はバッシニャーナ村を占領してコサック騎兵を偵察に派遣し、ムガロネ島からポー河南岸への渡河を続々と開始した。

 バッシニャーナの村人たちは解放軍が来たと歓喜して連合軍を迎え入れた。

 ローゼンベルク将軍はチェバロフ旅団の前衛をヴァレンツァからぺチェットまでの各方面に向かわせ、チェバロフ将軍率いる右翼をヴァレンツァ方面、コンスタンティン大公率いる左翼をぺチェット方面に進軍させた。

 この時点で、南岸に上陸したローゼンベルク師団の合計はおよそ2,500人であり、フランス軍の合計は約12,000人だった。

 午後1時頃、コンスタンティン大公が手に剣を持って部隊を指揮しぺチェットを占領した。

 そしてぺチェットの先にあるフランス軍の防衛陣地とサン・アントニオの塹壕陣地へ突撃隊を編成した。

 これらの陣地はケネル(Qesnel)少将とガルダンヌ少将が率いる旅団によって守られていた。

 コンスタンティン大公はフランス軍を山から後退させるために何度も突撃を試みたがケネル旅団及びガルダンヌ旅団の守る防御陣地を崩すことはできなかった。

 コンスタンティン大公はローゼンベルク将軍に増援を求め、将軍はこれを受けてすぐにミロラドヴィッチ旅団を大公の援軍に向かわせた。

 その後フランス軍は両翼を広げ、数的劣勢により防戦一方となったコンスタンティン大公は方陣を形成して来るはずの増援を待った。

総司令官からの撤退命令

 しかしそこへスヴォーロフ元帥の側近が命令書を持ってローゼンベルク将軍の元にやってきた。

 命令書の内容は「(スヴォーロフ)伯爵は我々と合流するために渡河するつもりなのかどうかを確かめるために伝令を派遣するよう命じた。ヴァレンツァ占領計画は断念する。可能な限り多くの兵を集めてここ(スヴォーロフの元)に合流せよ。ヴァレンツァ対岸の哨戒所と監視所はそのままにしておくように」というものだった。

 スヴォーロフの側近はローゼンベルク将軍にこれ以上ポー河南岸へ部隊を渡河させないよう命じ、既に南岸への渡河を完了した部隊には橋頭保からの撤退を命じた。

 そのためローゼンベルク将軍は救援に向かったミロラドヴィッチ将軍に引き返すよう命じ、スヴォーロフの側近の命令通り師団全体に北岸へ渡河するよう命じた。

コンスタンティン大公による撤退命令の撤回と再攻勢

 コンスタンティン大公が方陣を組んでフランス軍の攻撃を耐えている中、突然後方から退却と集結を命じる太鼓の音が鳴り響くのが聞こえてきた。

 コンスタンティン大公は急いでポー河沿いに戻り、撤退命令を撤回した。

 そしてすぐさまミロラドヴィッチ将軍率いる3個大隊約2,000人を再び前線に前進させてフランス軍への攻撃を続けた。

ヴィクトール師団の戦場への到着と連合軍の撤退

1799年5月12日、バッシニャーナの戦い:ヴィクトール師団の戦場への到着と連合軍の撤退

※1799年5月12日、バッシニャーナの戦い:ヴィクトール師団の戦場への到着とローゼンベルク師団の撤退

 その時、ヴィクトール師団がサン・ゼーノ方面の山に現れた。

 サン・ゼーノ方面を進軍するフランス軍の長い列をぺチェット周辺戦域から観察したコンスタンティン大公は即座に撤退命令を出した。

 サン・ゼーノ方面には弱い部隊しか配置していなかったため、新たに現れたフランス軍(ヴィクトール師団)がそのままバッシニャーナに向かった場合、退路を完全に断たれてしまうことになる。

 この時点で戦闘開始から8時間が経過していた。

 コンスタンティン大公とミロラドヴィッチ将軍は速やかにバッシニャーナ方面に部隊を後退させ、ポー河北岸へ2度目の渡河を開始した。

 連合軍の粘り強い奮闘によりフランス軍の追撃はバッシニャーナの手前で止まり、連合軍は日暮れまで揺るぎない堅固さでフランス軍の全ての攻撃を撃退した。

 しかし数時間前までローゼンベルク師団を歓迎していたバッシニャーナの住民たちが、突然、窓からローゼンベルク師団への発砲を開始した。

 ローゼンベルク師団は住民とフランス軍の両方に攻撃されて追跡され、ムガロネ島の方向へ向かって撤退した。

 しかし連合軍にさらなる不幸が舞い降りた。

 渡し舟の乗組員がケーブルを切断して行方不明になり、渡し舟はポー河の流れに流されてしまったのだ。

 渡し舟が回収され、修理され、負傷者の輸送に使われるまでにはしばらく時間がかかった。

 ムガロネ島と渡し舟での騒ぎは凄まじかった。

 大公の馬が何かに驚いて川に流されたが、コサックのパンテレーエフが間一髪で駆けつけ、大公の馬を岸に引き上げるという一幕もあった。

 負傷者は一晩中渡し舟で運ばれ、その後、健常者も島への渡河を開始したが、最後に南岸に取り残された兵士たちは武器を置いて降伏を余儀なくされた。

 暗闇の中、川岸にフランス軍の砲兵隊が到着し、ブドウ弾を発射してムガロネ島への攻撃を開始した。

 ロシア軍は夜通しフランス軍の砲火の中、島で持ちこたえ、支流を渡ろうとするフランス軍の度重なる試みを撃退した。

 13日午前2時、コンスタンティン大公はようやく舟に乗ることができ、副官がスポントゥーン(Spontoon)をオールの代わりにして北岸へ渡った。

 連合軍が撤退するためにポー河を再度渡河した際、泳いで逃亡した多くの兵士が溺死したと言われている。

※スポントゥーン(Spontoon)とは幅広の三又の槍のこと。

 一方、ヴァレンツァでは目の前の島を占領したが撃退され、カザーレ・モンフェラートではヴィカソヴィッチ旅団も大きな損害を出して撃退されていた。

 この戦いでのフランス軍の損害は12,000人中、死傷者と行方不明者の合計約600人であり、連合軍の損害は3,500人中、戦死333人、負傷659人、捕虜300人、大砲2門だったと言われている。

 フランス軍側ではケネル将軍が負傷し、連合軍側ではチェバロフ将軍が負傷した。

戦いの後

 再三の集結命令を送ったにもかかわらずバッシニャーナでの失敗の報告を受けてスヴォーロフは苛立っていた。

 コンスタンティン大公の軽率さを非難し、その行動が規律に反していると指摘する報告書を皇帝に急いで書いた。

 しかしその報告書は一度送られたがスヴォーロフの命により途中で戻され、破り捨てられた。

 そしてコンスタンティン大公を召集した。

 コンスタンティン大公は罪悪感によりスヴォーロフと顔を合せたくなかった。

 そのため面会を先延ばししようと従者の1人であるコマロフスキーをスヴォーロフの元に行かせた。

 スヴォーロフは怒りと苛立ちを隠すことなくコマロフスキーを迎えた。

 コマロフスキーとその仲間(コンスタンティン大公の従者たち)が大公を危険にさらしたことを非難し、(次に大公の身に危険を及ぼすようなことをしたら)彼ら全員を鎖につなぎ、使者をつけてペテルブルクなどに送ると言い渡した。

 スヴォーロフは話しながら大股で部屋の中を歩き回り、コマロフスキーは立ちながら黙って聞いていた。

 怒りをぶちまけたスヴォーロフは大公の護衛が十分ではないと判断し、自身の護衛隊の一部をコマロフスキーに与え大公の元に向かわせた。

 コンスタンティン大公が戦死することは皇帝パーヴェル1世が考えるロシアの後継者が失われるということであり、スヴォーロフとしても前線での政治的立場が失われるということを意味していた。

 そのためコマロフスキーたち大公の従者たちに緊張感を持たせ、大公の安全を増強したのである。

 コンスタンティン大公の邸宅に到着したコマロフスキーは、元帥の言葉を全て伝えた。

「彼はとても怒っている」と大公は言うと考え込み、スヴォーロフの本部に向かった。

 本部に到着すると足取り重くスヴォーロフの元に行った。

 スヴォーロフは深々と頭を下げ、敬意を表して広間で彼を迎え、書斎へ招き入れ、鍵をかけた。

 約30分の会話の後、大公は動揺し顔を赤らめ、涙を流して出てきた。

 スヴォーロフは同じように頭を下げて大公とともに玄関に向かった。

 スヴォーロフがコンスタンティン大公の随行員が立っている応接室の前を通り過ぎる時、スヴォーロフは随行員に対して「坊やたち(мальчишками)」と呼び、コマロフスキーに伝えたのと同様のことを言い渡し、敬意をもって大公に付き添い再び玄関へと向かった。

 コンスタンティン大公はその後、襟を正してスヴォーロフに従った。

 スヴォーロフはローゼンベルク将軍に対しても不快感を示し、いかなる弁解も受け入れなかった。

 ローゼンベルク将軍の名前は挙げられなかったものの間接的に厳しく叱責された。

 スヴォーロフは、ロシア軍(コンスタンティン大公の旅団とミロラドヴィッチ旅団)が勇敢に敵に向かって進撃を続けていた時、突然後方から退却と集結を命じる太鼓の音が聞こえたと指摘した。

 これは演習中であってもあってはならないことだった。

 一方、コンスタンティン大公への増援として向かい奮闘したミロラドヴィッチ将軍とバッシニャーナの戦いで戦った兵士たちの勇敢さを高く評価した。

 ミロラドヴィッチ将軍はこの戦いで旗を掲げて攻撃に赴き、白兵戦でサーベルを折られ、馬2頭を失っていた。

 スヴォーロフ元帥はこの戦いでの出来事をオーストリア皇帝フランツ2世へ包み隠さず報告した。

 皇帝はこの事件を重く受け止め、ローゼンベルクが能力不足であれば年功序列に関わらずローゼンベルクの代わりとしてデアフェルデンまたは他の人物を起用することをスヴォーロフに再度許可したと言われている。