シリア戦役 63:マッセナ将軍率いるドナウ方面軍のトゥール川及びテス川での防衛線の構築【スイス戦線】
General Massena establishes defense lines along the Thur and Toss rivers

ドナウ方面軍のグラウビュンデン州からの撤退

1799年5月中旬、ダボスを失ったスーシェ旅団の退却路

※1799年5月中旬、ダボスを失ったスーシェ旅団の退却路

 イランツ(Ilanz)を通過したスーシェ旅団は険しい道を通り、住民の襲撃と飢えに襲われながら1799年5月19日にウルセレン(Urseren)渓谷に到着し、フルカ峠(Furka pass)のルクルブ師団と合流することに成功した。

※ウルセレン(Urseren)渓谷とは、レアルプ(Realp)~ホスペンタール(Hospental)~アンデルマット(Andermatt)の間の渓谷のこと。

 スーシェ旅団はこの行軍で400人の兵士を失っていた。

 その頃、シャブラン旅団はヴァレン湖東端に位置するヴァレンシュタット(Walenstadt)を失い、スーシェ旅団との合流に期待してリント(Linth)渓谷に全軍を集結させていた。

 この時、シャブラン旅団の銃剣はすでに1,000本を下回っていた。

 ザルガンスからヴェルデンベルク(Werdenberg)までを防衛していたロルジュ師団所属のアンバート旅団もアズモースの塹壕陣地を失ってトゥール川沿いのウィルトハウス(Wildhaus)まで後退を余儀なくされた。

 ドナウ方面軍はグラウビュンデン州を失い、さらにアルプス山脈の高山地帯(ウーリ州やザンクト・ガレン州南部)からも追い出されようとしていた。

 これはチューリッヒ東部のライン川戦線が崩れ始めたことを意味していた。

マッセナのスイス防衛戦略とチューリッヒ近郊の工事の進捗状況

1799年5月中旬頃、マッセナが防衛しようとしているチューリッヒ周辺地図

※1799年5月中旬頃、マッセナが防衛しようとしているチューリッヒ周辺地図

 ライヒェナウ橋とラントクワルトの税関橋は失われ、ザントライユ将軍率いる15,000人がトリノへ向かったことでライン川戦線を持ちこたえられなくなっていた。

 フランス政府が約束した10,000人の増援は期待できなかった。

 この時、すでにマッセナは最悪の事態を想定し、トゥール川、テス川、グラット川の順に防衛しながらチューリッヒ近郊に戦力を集中させることを考えていた。

 それぞれの防衛線で最大限戦って敵に出血を強いつつ撤退し、最終的に勝利しようとしていたのである。

 その中でも特にテス川は重要だった。

 テス川の防衛線から撤退することになればカール大公軍とホッツェ師団の合流を完全に許し、圧倒的不利な状況に陥ってしまうことになる。

 そのため出来得ることならラーヘン(Lachen)とラッパーシュヴィール(Rapperswil)でホッツェ師団左翼の進軍を止め、カール大公軍左翼とホッツェ師団右翼の想定合流地であるフラウエンフェルト(Frauenfeld)、そしてテス川のほとりにあるネフテンバッハ(Neftenbach)とヴィンタートゥール(Winterthur)でオーストリア軍を撃退したいと考えていた。

 撃退できなかった時のためにグラット川及びチューリッヒ近郊での防衛も想定していたのである。

 しかしマッセナがチューリッヒ近郊の状況を視察するとチューリッヒを守るための効果的な工事となっておらず、度重なる要請にもかかわらず資金難によって工事は遅れ、まったく手を付けられていない箇所さえあった。

 この事態に愕然としたマッセナは工事を急がせるために新たな命令を出した。

ベルガルド将軍率いるチロル軍のイタリアへの進軍

1799年5月中旬頃、ベルガルド将軍率いるチロル軍のイタリアへの進軍

※1799年5月中旬頃、ベルガルド将軍率いるチロル軍のイタリアへの進軍

 ドナウ方面軍のグラウビュンデン州からの撤退後、ベルガルド将軍率いるチロル軍はスーシェ旅団を追ってザンクト・ゴッタルド峠へ進軍し、ルクルブ師団を圧迫してくるだろうと予想された。

 しかしベルガルド将軍はリーロ渓谷の北にあるシュプリューゲン(Splugen)とリーロ川がメッラ(Mera)川に流れ込むキアヴェンナ(Chiavenna)に短期間滞在した後、12,000人とともにコモ湖へ向かいスヴォーロフ元帥の指揮下に入った。

 ライン渓谷にはサン・ジュリアン旅団のみが残されており、スヴォーロフ元帥はこれにローアン旅団とシュトラウス旅団を加えて3個旅団約10,000人として師団を形成し、ハディック(Karl Joseph Graf Hadik von Futak)将軍に指揮させた。

 ハディック師団の任務はザンクト・ゴッタルド峠を占領し、スヴォーロフ軍の右側を守るというものだった。

マッセナ将軍によるドナウ方面軍のチューリッヒ方面への撤退命令

 5月19日、マッセナはドナウ方面軍の全師団長にチューリッヒへ方面の撤退命令を出した。

 タロー師団はアンデルフィンゲンを経由してヴィンタートゥールへ、ウディノ師団はフラウエンフェルトを経由して同じくヴィンタートゥールへ向かうよう命じられた。

 ロルジュ師団はリヒテンシュタイク(Lichtensteig)へ撤退するよう命じられた。

 ウディノ将軍はロルジュ師団との連絡線の維持のためにヴィル(Wil)に騎兵の分遣隊を派遣することになっていた。

 これら3個師団はまずは物資と重砲を運ぶことを優先し、退却を隠蔽するために砲兵隊とスイス軍数個中隊をライン川岸に残すよう命じられていた。

ドナウ方面軍の撤退開始

 マッセナの撤退命令はその日の内に届けられ、撤退は20日に開始された。

 当初、マッセナはトゥール川で第1防衛線を、テス川で第2防衛線を、グラット川で第3防衛線を構築しようとしていた。

 しかし撤退の過程で考えを変えた。

 マッセナはトゥール川の防衛線は効果的な防御には適さないと判断し、テス川とチューリッヒ湖を利用して防衛を行うこととしたのである。

 シャブラン旅団はラッパーシュヴィール付近のチューリッヒ湖両岸を占領し、ロルジュ師団は21日にリヒテンシュタイクとヴィルからヴィンタートゥールに向けて進軍し、22日にはグラット川右岸のヴァリゼレン(Wallisellen)の前に陣取った。

 ウディノ師団とタロー師団はヴィンタートゥールとネフテンバッハに強力な前衛を維持しつつ、ウディノ将軍はバッサースドルフ、タロー将軍はクローテンを占領した。

 スールト師団はアーレ川河口のコブレンツからバーゼルまでのライン川線を維持し続けていた。

ドナウ軍の再編成

1799年5月25日~30日までのチューリッヒに集結していたドナウ軍の状況

※1799年5月25日~30日までのチューリッヒに集結していたドナウ軍の状況

 マッセナはドナウ方面軍を1個前衛師団、1個予備師団を含む7個師団に分割した。

 前衛師団はネイ将軍が不在だったため一時的にウディノ将軍が指揮し、第1師団はルクルブ将軍が指揮する。

 第2師団はシャブラン将軍、第3師団はスールト将軍、第4師団はウディノ将軍の代わりにパイヤール(Paillard)将軍が指揮し、これら3個師団はタロー将軍によって率いられる。

 数日後、前衛師団はタロー将軍指揮下となる。

 第5師団はタロー将軍とは考えが合わないロルジュ将軍、第6師団はスーアン将軍が指揮し、これら2個師団はフェリーノ将軍によって率いられる。

 予備軍である第7師団はアンバール(Humbert)将軍が指揮し、ルグラン将軍によって率いられる。

 その他ヴァレー州の師団とヘルヴェティア国内師団も再編成され、ヴァレー州を担当するザントライユ師団は約15,000人から約6,000人に削減された。

※上記画像では第4師団は上官であるタロー将軍となっているがウディノ将軍が抜けた穴を埋めたためだと考えられる。