シリア戦役 53:第4次アッコ要塞突入戦
4th Battle of Acre Fortress

「1799年アッコ包囲戦」。作者不明。

※「1799年アッコ包囲戦」。作者不明。恐らくこの絵は5月8日にランヌ将軍が指揮した突入戦ではなく、5月10日にヴェルティエ将軍が指揮しボン将軍とクレベール将軍が突入した戦いだと考えられる。


フランス軍による堀の外縁壁頂上にある塹壕占領作戦の失敗

 ボナパルトは、1799年5月6日夜~7日未明に敵の武器庫、突破口側面の塹壕、特に最初に堀の外縁壁(カウンタースケープ)に開けた突破口の頂上にある塹壕を奇襲攻撃で再び占領し、塹壕を築くよう命じた。

 フランスの攻撃隊は堀の外縁壁(カウンタースケープ)に開けた突破口の頂上にある塹壕を除いてすべての陣地を占領したが、アッコ守備隊の猛烈な砲火により攻撃隊は陣地を築くことも撤退することも不可能となった。

ナポレオンによるアッコ要塞への再攻撃命令

 昨日(6日)の夜の攻撃に失敗したもののボナパルトは諦めていなかった。

 5月7日、ボン将軍とドマルタン砲兵将軍に夜9時までにアッコ要塞へ攻撃を仕掛ける準備を完了させるよう命じた。

 攻撃の開始時刻はボン将軍の判断に委ねられた。

 ボナパルトの意図は、ドマルタン将軍が準備した各砲台の支援下でボン師団がアッコ守備隊右翼のラベリンと塹壕を攻撃して可能な限りの損害を与え、妨害し足止めする。

 この攻撃により大きな古い塔が補強されるのを阻止するというものだった。

 この時、ドマルタン将軍は城壁に新たな突破口を開くことを命じられていた。

 各将軍達は今夜行われる攻撃に向けて準備を開始した。

ロードス島軍のアッコ沖への到着

 シドニー・スミス将軍は長らくロードス島軍の司令官であるハッサン・ベイに増援を求めてきた。

 ダマスカス連合軍が敗北した今、ジェザル・アフマド・パシャもロードス島からの増援が来るのを待ち望んでおり、それがアッコを守り抜くための希望となっていた。

 当初、ハッサン・ベイはエジプトでイギリス軍と合流するよう命令を受けており、命令の変更と準備のため増援の派遣に時間がかかっていた。

 シドニー・スミス将軍としては幾度も非常に強い増援命令を繰り返すしかなかったが、包囲戦51日目となる5月7日夕方、ロードス島軍のコルベット艦隊と輸送船が遂にアッコ沖に姿を現した。

 フランス軍側からも30隻~40隻の船が海岸に向かって航行しているのが目撃された。

アッコ要塞への突入準備

 ロードス島からの増援部隊を乗せた船団の接近はボナパルトにとって危険な予兆だった。

そのため増援が上陸する前にアッコの町を占領しなければならなかった。

この日の天候は穏やかで風は陸から吹きつけていた。

そのためアッコへの増援部隊を乗せた船が町に到着するには少なくとも24時間はかかると思われた。

 ボナパルトの計画では9日に地下を爆破して総攻撃を仕掛ける予定となっていたが、堀の外縁壁(カウンタースケープ)の爆破なしに明日(8日)の夜明けに総攻撃を開始することを決定した。

ランヌ将軍は翌日夜明けの攻撃のためにすぐに3縦隊の編成を開始した。

第1縦隊はランボー将軍の指揮下で城壁の突破口から町に入り、第2縦隊はラスカル副官の指揮下で主塔から町に入る計画であり、ランヌ将軍は第3縦隊の先頭に立ち、予備隊を形成した。

 ボン将軍は今夜の攻撃のために海の門のラベリン側への攻撃隊形を整え、ドマルタン将軍も砲撃準備を整えた。

第4次アッコ要塞突入作戦の開始

 フランス軍は絶え間なく砲撃を行っていたが、夜9時、前夜(6日夜)10時に開始したのと同様の攻撃を繰り返した。

 第4次アッコ要塞突入作戦が開始されるとその砲火は10倍に激化した。

 イギリス軍は水上からの側面攻撃を最大限に行ったが、フランス軍の防御は以前より改善されており効果はこれまでよりも薄かった。

 最も効果的に運用できた砲は、灯台城に設置されたフランス製の真鍮製18ポンド砲と北側のラベリンに設置された24ポンド砲だった。

 これらの砲は フランスの攻撃隊の先頭からわずかの距離に位置し、アッコ守備隊から発せられるマスケット銃と相まってかなりの戦果を上げた。

 シドニー・スミス将軍の旗艦「ティーグル」からも68ポンドカロネード砲2門が火を噴き、フランスの縦隊の中央に砲弾を撃ち込んで明らかな効果を上げ、その勢いを著しく弱めた。

 しかし、そのような中でもフランス軍は突破口を突破してアッコ守備隊を町へと追撃し、大砲2門と迫撃砲2門を奪取し、午後10時に主塔(大きな古い塔)の2階に陣地を築いた。

 塔の上部は完全に破壊され、その残骸は堀に崩れ落ち、フランス兵が登るための上り坂となっていた。

 アッコの城壁や塔の一部はフランス軍によって占領され、アッコ守備隊の一部は宮殿の前の第2防衛線まで後退し、一部はまだ占領されていない城壁や塔で抵抗していた。

 アッコ守備隊の頑強な抵抗と砲台からの射撃の中でフランス軍の攻勢は成功しているようだった。

 フランス軍の攻勢はかつてないほど大胆に行われた。

 ボン将軍、ヴィアル将軍、ランポン将軍は第18半旅団と第32半旅団を率い、勇気と冷静さの模範を示した。

 第18半旅団の指揮官であり、優れた兵士であったボワイエがこの攻撃で戦死した。

 フランス軍側では17人の将校を含む150人の兵士たちが死傷したと言われている。

 アッコ守備隊側の損失は大きく、その死体はフランス軍側の援軍として役に立った。

※恐らく、死体は堀や塹壕を埋められたり盾代わりにされたりしたのだろう。

 夜、ボナパルトの元にガザからの火薬が翌日に到着するという知らせが届けられた。

 これにより翌日も砲撃を継続できる目途が立った。

 しかし、一方で日暮れとともに風向きが変わりアッコ要塞への増援部隊を乗せた船が夜の間に岸に到着した。

アッコ守備隊の前進

 5月8日夜明け前、ロードス島軍が上陸を開始した。

 これを見たフランス軍は占領した町の一部を放棄して大きな古い塔(主塔)内の陣地に後退した。

 日が昇った時、大きな古い塔の外角にフランス軍の旗が掲げられているのが見えた。

 アッコ守備隊側の砲火はフランス軍側の砲火に比べてかなり弱まっており、水上からの側面への砲火も効果が薄れていた。

 ジェザル・アフマド・パシャはフランス軍の後退を見ると攻勢を仕掛け突破口まで押し戻したが、堀の向こうのフランス軍の塹壕線を切り崩すことはできずにいた。

 フランス軍は堀の外側にある2つの塹壕線によって身を守っており、これらの塹壕線は夜通し砲火の中にあったため塹壕の中にはフランス兵の死体が散乱していた。

 塹壕は砂袋が積まれてできており、塹壕線の上から見えるのは銃剣だけだった。

 ハッサン・ベイの部隊はボートに乗っていたが、まだ岸に半分ほどしか上陸していなかった。

※「ジェザル・アフマド・パシャがフランス軍の後退を見て押し戻したが塹壕線を切り崩すことができなかった」ということは資料にはかかれておらず、ブログ著者の想像である。日が昇った時、シドニー・スミス将軍は北東塔(大きな古い塔)の外角にフランス軍の旗が掲げられているのを見ているため、夜明け時、大きな古い塔はまだフランス軍の手中にあった。しかし、その後の資料の中での展開は「イギリス軍が突破口に到着した時、突破口付近は少数のアッコの兵士によって守られていた」とあり、大きな古い塔の外側の突破口付近までアッコ守備隊が進出していたことになっている。そのため、アッコ守備隊は大きな古い塔を制圧して突破口まで進出したのだろうと考えられる。これらの理由と新たな資料が発見できなかったことによりブログ著者の想像を付加した。

シドニー・スミス将軍率いるイギリス軍の前線への進出

「Sir William Sidney Smith(ウィリアム・シドニー・スミス卿)」。ジョン・エクスタイン(John Eckstein)画。19世紀。

※「Sir William Sidney Smith(ウィリアム・シドニー・スミス卿)」。ジョン・エクスタイン(John Eckstein)画。19世紀。シドニー・スミス将軍の後ろにアラブ人が描かれていることから、アッコ包囲戦で指揮している様子を描いたものだと考えられる。

 突破口での戦闘はアッコ守備隊にとって極めて重要であり、ロードス島軍が前線に到着するまでの間、この場所を守り抜く必要があった。

 そのためシドニー・スミス将軍は槍で武装した部隊をボートで防波堤に上陸させ突破口まで導いた。

 イギリス軍のこの行動がアッコ守備隊にも勇気を与え、多くの逃亡兵がイギリス軍とともに突破口まで戻って来た。

 突破口付近は少数の勇敢なアッコの兵士によって守られていた。

 彼らの最も破壊力のある投石武器は重い石で、フランスの攻撃隊の頭部を直撃し、先頭の兵士を斜面から転落させ、残りの兵士の進撃を阻んだ。

精悍な老人ジェザル・アフマド・パシャ

「Sir Sidney Smith(シドニー・スミス卿)」。William Marshall Craig(ウィリアム・マーシャル・クレイグ)画。19世紀。

※「Sir Sidney Smith Defending the Breach at Acre,1799(1799年、アッコの突破口を守るシドニー・スミス卿)」。William Marshall Craig(ウィリアム・マーシャル・クレイグ)画。19世紀。ジェザル・アフマド・パシャが突破口からシドニー・スミス将軍を引き離そうとしている場面。

 トルコ古来の慣習では敵の首を(司令官の元に)持って来た者に褒美を与えることになっていたが、ジェザル・アフマド・パシャはイギリス軍が突破口を開いたという知らせを聞くと席を離れ前線に赴いた。

 そして自らの手でマスケット銃の弾薬を配った。

 背後から迫って来た精悍な老人はイギリス軍を力ずくで突破口付近の前線から引き離し「もしイギリスの友人たちに危害が加われば全てが失われる」と言った。

 誰が突破口を守るのかという友好的な争いはアッコ守備隊が突破口に殺到するきっかけとなり、ロードス島軍の最初の上陸部隊が前線に到着する時間を稼いだ。

オスマン帝国軍の受け入れとニザーム・ジェディードの前線への派遣

 一方、フランス軍側では、ボナパルトが夜明けとともに突破口の塔の右側の城壁と塔自体の両方を突破するよう命じていた。

 城壁が崩れ突破口は通行可能と思われた。

 フランス軍は前進し、ボナパルトはランヌ将軍に攻撃を命じた。

 ランヌ師団はランボー少将率いる第1縦隊に先導されて行軍を開始した。

 他の師団はランヌ師団を支援する配置についた。

 ランヌ師団は突破口に突撃した。

 アッコ守備隊は押され、突破口の上の塹壕線(第3線)を失った。

 フランス軍とアッコ守備隊は廃墟の山(城壁の瓦礫)を間にして向かい合い、マスケット銃の銃口が触れ合い、旗の先が絡み合うほどに接近していた。

 それにもかかわらずジェザル・アフマド・パシャはロードス島軍の受け入れに難色を示していた。

 もし受け入れた場合、これまで築き上げてきたオスマン帝国からの独立性を侵食される可能性が高まるのである。

 しかしアッコ守備隊の兵力は少なくなっており、アッコを守り切るためにはもはや議論の余地が残されていなかった。

 シドニー・スミス将軍はジェザル・アフマド・パシャの反対を押し切り、オスマン帝国皇帝セリム3世の監督下でヨーロッパ式の規律で訓練された1,000人のニザーム・ジェディード連隊を前線に派遣した。

※ニザーム・ジェディードとは、時代遅れのイェニチェリではなくセリム3世が新たに創設したヨーロッパ式軍隊のこと。ニザーム・ジェディードとは「新たな秩序」という意味。

揃わないフランス軍の足並み

 既に200人のフランス兵が塔内にいた。

 ボナパルトの命令によれば、塔内の部隊は突破口が占領され次第、突破口の右側を見下ろす第2塔の廃墟に陣取るアッコ守備隊を攻撃することになっていた。

 そして塹壕にいる大隊もまたアッコ守備隊の外側の拠点へと前進することとなっていた。

 これによりアッコ守備隊は突破口から撤退することも後方から砲撃することもできなくなるはずだった。

 しかしこれらの重要な命令は、十分に一貫性をもって実行されなかった。

要塞からの7度目の出撃

 新たな増援部隊の出現に勇気づけられたアッコ守備隊は、今や全員徒歩で前線に向かっていた。

 そのため突破口方向の兵力は十分にあった。

 シドニー・スミス将軍はジェザル・アフマド・パシャに、当初の1,000人から200人にまで減少した金髪碧眼の多いアルバニア人に命じて城門(海の門)を開いて突撃させ、フランスの攻撃部隊を側面から迎撃することを提案した。

 パシャはアルバニア人に対する嫉妬から快諾したと言われている。

 シドニー・スミス将軍は大佐にフランス軍の第3線、つまり最も近い塹壕を占領し、そこで瓦礫を外側に移動させて陣地を固めるよう指示した。

 アッコ側は外側の要塞(東側城壁)を離れ、左右(突破口側と海側)の塹壕に突入し、後方から突破口を奪うための一斉攻撃を仕掛けようとしたのである。

 これによりアッコ守備隊は海の門を開いて突撃し、突破口側でも突破口の右側を見下ろす第2塔からフランス軍に火炎弾を浴びせ、激しい砲火の応酬を開始した。

 しかし海の門側から突撃したアッコ守備隊はその規律の無さにより思うような機動ができず、損害を被りながら町へと撃退された。

 ティーグルはいつものように68ポンドカロネード砲からブドウ弾を効果的に発射して町の門を守った。

 この出撃は撃退されたもののアッコ側にとって良い効果をもたらした。

 フランス軍は瓦礫の上に身をさらさざるを得なくなり、側面からの射撃で多くの損害を与えられるようになったのだ。

※恐らく門からの出撃によって瓦礫を動かすことができたのだと考えられる。

 これにより突破口から次々とやってくるフランスの攻撃隊は多くの損害を出した。

 城壁を登っていたフランスの兵士たちはためらい、立ち止まった。

 隊列に不安が渦巻き、かつてのような勢いで街路を進軍することはもはやできなかった。

 家屋、街路のバリケード、そして宮殿からの砲火は、突破口を突破して来た兵士たちだけでなく既に要塞内に侵入していた兵士たちを前後から攻撃した。

 要塞内に侵入していた兵士たちは十分な支援を受けられず、前日に奪取した大砲2門と迫撃砲2門を放棄して撤退した。

 陣地(恐らく第3線)に残っていた少数のフランス兵もテセウスの士官候補生サベージが投げたわずかな手榴弾によって殺されるか、散り散りになった。

フランス軍の砲撃による新たな突破口の開通

 城壁と塔、そして第3線からの撤退の動きはすぐにフランス軍全体に広がった。

 しかしフランス軍も諦めたわけではなかった。

 ランヌ将軍は師団を鼓舞して撤退の動きを食い止めた。

 そしてドマルタン将軍は陣地の南側に向けて絶え間ない砲撃を行い新たな突破口を開いたのである。

 フランス軍が多くの時間と弾薬を費やした大きな古い塔(主塔)の壁と比べるとはるかに脆弱な壁が一発ごとに崩壊していった。

ナポレオンによる攻撃指示とクレベール将軍への増援の要求

 ティーグルの68ポンドカロネード砲によって散り散りとなっていたフランスの将軍たちと副官たちの集団は、今やリチャード獅子心王の丘の上に再集結していた。

※リチャード獅子心王の丘とはナポレオンの本部のある丘のことである。

 シドニー・スミス将軍の位置からボナパルトが丘の上で半円陣の中央に立っているのが見えた。

 ボナパルトの身振りは攻撃再開を示唆し、副官を(クレベールの)陣地に派遣したことにより増援を指示したことを示していた。

 実際、ボナパルトは5月8日付けの書簡でクレベール将軍にヴェルディエ旅団をアッコの陣地に派遣するよう命じている。

 シドニー・スミス将軍はハッサン・ベイの艦隊に南の浅瀬に陣取るよう指示し、北のテセウスにティーグルから進路変更と合流を指示する合図を送った。

ジェザル・アフマド・パシャによるフランス軍迎撃計画と総攻撃の失敗

「1799年アッコ包囲戦」。1883年

※「1799年アッコ包囲戦」。1883年

 5月8日の日没の少し前、フランスの大隊列が荘厳な足取りで突破口に向かって前進してきた。

 ランヌ将軍は遂に自らが率いる予備隊を投入したのである。

 ジェザル・アフマド・パシャはフランス軍をわざと一定数侵入させ、その後に攻撃するという計画を実行に移した。

 フランスの縦隊は妨害されることなく突破口を突破し、崩れた城壁から内部に侵入した。

 そこではほんの数分のうちに、最も勇敢で最前線にいたフランス兵たちの首のない死体が横たわることとなった。

 サーベルに加え、もう一方の手には短剣を持っていたアッコ守備隊の兵士の腕は、銃剣にも劣らない威力を発揮した。

 その一方で問題も生じていた。

 これまでは集結地点として機能していたイギリス軍の制服だったが、今や薄暮の中でフランス軍と間違えられ、新たにロードス島から到着したトルコ軍は群衆の中の帽子を区別することができなくなっていた。

 そのためダグラス大佐をはじめとするイギリス軍将校たちは逃亡者の奔流をかき分けて進軍する中で幾度となくサーベルの強烈な一撃を躱すことを余儀なくされ、危うく命を落としかけたのである。

 問題はありつつもジェザル・アフマド・パシャの奮闘やロードス島軍の支援によりフランスの攻撃隊に大きな損害を与えた。

 激しい白兵戦が繰り広げられたが、フランス軍の当初の勢いは徐々に失われていった。

 フランス兵たちは要塞内から急いで後退し、勇敢にも部下たちに突破口を開くよう鼓舞していたランヌ将軍はマスケット銃の弾を首に受けて負傷し、第1縦隊を指揮していたランボー将軍は戦死した。

 ランヌ将軍は歩兵大尉にすぐに救出されたため事なきを得た。

 その後、ランヌ将軍は従軍外科医であるドミニク・ジャン・ラレーの治療を受けることとなる。

 辺りは暗くなっており優勢は完全にアッコ側に傾いていた。

 そして夜10時、ボナパルトは撤退命令を下した。

 こうして25時間にわたって繰り広げられた第4次アッコ要塞突入戦は終わりを迎え、両軍とも疲労困憊で動けなくなった。

シリア遠征の分水嶺

 アッコ側ではフランス軍を撃退したものの町に引き入れたことで大きな問題が生じていた。

 多数の捕虜を通じて防衛方法が漏洩するのではないかという恐れが生じたことにより、採用された防衛方法を各部隊に事前に知らせることは無謀であると考えられた。

 シドニー・スミス将軍は、「明日、ボナパルトは間違いなく攻撃を再開するだろう」と予想していた。

 フランス軍は今回の攻撃で突破口を50人が横一列に並んで前進できるほど広げていた。

 アッコ要塞自体の防御力というより、この突破口の存在によってボナパルトはアッコへの攻撃を再開するだろうと考えられた。

 シドニー・スミス将軍は、この戦いがシリアでの戦いの分水嶺となると感じており、もしボナパルトが既に次なる計画を用意し、その遂行のための増援があった場合、コンスタンティノープルはおろか、ウィーンでさえも衝撃を受けるだろうと考えていた。

 1799年5月9日付けのシドニー・スミス将軍から上司であるセントヴィンセント伯爵へ宛てた書簡にはアッコの行方について弱気な心情が書かれている。

「ご安心ください、閣下。我々の義務の大きさは、義務を果たそうとする努力のエネルギーを増大させるだけです。そして、我々は打ち負かされる可能性があり、おそらくそうなるでしょうが、フランス軍は勝利するまでにさらに弱体化し、せっかくの勝利の恩恵をほとんど受けられなくなるだろうと私はあえて言えます。」