シリア戦役 52:第4次アッコ要塞突入作戦の延期とイタリア戦線での静かな攻防
The Quiet Battle on the Italian Front

イギリス軍のスエズ沖への到着

 1799年5月4日、イギリスの戦列艦とフリゲート艦、ブリッグ艦がスエズ沖に姿を現した。

 イギリス軍はブリッグ艦を巡視船として残してスエズ沖を去った。

 ドゼー将軍の元には5月2日にクセイル沖にイギリスの艦船が現れ、紅海で接岸できる場所が無かったためクセイル沖を去ったという報告が届けられており、このイギリス船がスエズに現れたのだろう。

 しかし、メッカのシャリーフ(司令官)はイギリスに船がスエズへコーヒーを運び続けることを許可するよう強く求めた。

大きな古い塔と隣の塔の間の城壁の破壊

1799年5月、アッコ要塞攻囲戦における防衛施設などの位置関係

※1799年5月、アッコ要塞攻囲戦における防衛施設などの位置関係

 一方、アッコ前では、5月3日までにはヤッファから届けられた24ポンド砲が砲台に配置され、フランス軍とアッコ守備隊の塹壕陣地での攻防は精力的に行われた。

 5月4日、ボナパルトは夜8時~9時の間に出撃するようランポン将軍に命じたが、火薬が不足したためボナパルトは砲撃を弱めるよう命令せざるを得なかった。

 そのためランポン将軍の出撃は一時中止となった。

 フランス軍の砲火が弱まったのを見たアッコ守備隊は大胆に行動し始め、特に右翼側(海側)の塹壕を精力的に前進させた。

 その目的はフランス軍の塹壕と新たな塹壕の繋がりを遮断することだった。

 5月4日夜10時、この新たな攻撃に対抗するため、ボナパルトは歩兵部隊にその場所の城壁外に設置された砲台を攻撃するよう命じた。

 命令が実行され、その場所にいたアッコ守備隊の兵士たちは不意を衝かれて喉を引き裂かれた。

 アッコ守備隊の砲台は占領され、フランス軍は大砲3門を取り囲んだ。

 しかしその場所への攻撃により、砲台を完全に破壊するまでの間持ち堪えることはできなかった。

 この日、主塔(大きな古い塔)と第2塔(主塔のすぐ南の塔)の間の城壁は破壊され、第2塔の突破口が開かれた。

 そして第2塔前の堀の外縁壁(カウンタースケープ)を爆破する坑道も完成した。

 そのため、翌5日の朝に総攻撃が開始されることが決定された。

 総攻撃は確実に成功すると思われた。

火薬の不足による総攻撃の24時間の延期

 5月5日、アッコ守備隊はフランス軍が放棄した右翼側(海側)の砲台を再び占領し、砲台の修復作業を行った。

 そして粘り強く坑道に沿って前進する方法を見つけようと試み、この日の夜に主塔と第2塔の間の突破口の反対側の堀の外縁壁(カウンタースケープ)を爆破することを計画していた。

 ボナパルトの予定ではこの日に総攻撃を開始し、夜~翌日未明に堀の外縁壁(カウンタースケープ)を爆破する計画だった。

 しかし、砲兵隊の指揮官がガザから輸送されるはずの火薬が日中に到着することを期待して総攻撃の開始を24時間延期することを上申した。

 火薬が少ない時に総攻撃を仕掛けたとしても途中で砲火を弱めるか、砲撃を停止せざるを得ない状況になるのではないかと危惧したのである。

 そのため総攻撃は翌6日に持ち越されることとなった。

イタリア戦線における連合軍の再配置と計画の変更

1799年5月5日~6日、イタリア戦線における連合軍の再配置と計画の変更<第2次対仏大同盟戦争>

※1799年5月5日~6日、イタリア戦線における連合軍の再配置と計画の変更

 5月5日、ティチーノ川を渡ったヴィカソヴィッチ将軍は、パヴィアで同川を渡ったオット将軍の元を訪れ今後の進路と目的地を話し合った。

 同日、ロシア・オーストリア連合軍総司令官スヴォーロフ元帥はパヴィアの東約15㎞ほどのところにあるコルテオローナ(Corteolona e Genzone)で軍の再配置を行った。

 この時、ローゼンベルク師団はパルパネーゼの対岸で未だ足止めされており、ようやくクレモナからの資材が届き始めたところだった。

 そして、この時点での連合軍の弱点はクレイ将軍が包囲しているペスキエーラ要塞とマントヴァ要塞をマクドナル将軍率いるナポリ方面軍に脅かされることであり、クレナウ旅団を支援するためにパルマ方面へ部隊を派遣する必要があった。

 これらの状況に加え、ロシア軍とオーストリア軍を分けて運用したかったためかスヴォーロフ元帥はオーストリア兵で構成されるオット師団をピアチェンツァで渡河するルートでパルマ方面に向かわせ、ロシア兵で構成されるローゼンベルク師団10,571人にパヴィアでティチーノ川を渡らせた。

 ローゼンベルク師団の前衛であるバグラチオン旅団5,862人は、師団を離れパヴィアの南にあるメッツァーナ・コルティ(Mezzana Corti)に舟橋を架けてポー河を渡りヴォゲーラとトルトナへ向かうよう命じられた。

 5月6日、メラス将軍はピアチェンツァ近郊でポー河を渡って分遣隊をトレッビア川に沿って南西のボッビオ(Bobbio)へ派遣し、ローゼンベルク師団はティチーノ川を渡ってさらに西進した。

 これら連合軍の機動は、アレクサンドリアとジェノヴァ、そしてジェノヴァとトスカーナの連絡線の遮断を目的としているように思えた。

アッコ要塞からの6度目の出撃による総攻撃のさらなる延期

 5月6日午前3時、アッコ守備隊の工兵たちが堀の外縁壁(カウンタースケープ)を切り開き、2重の対壕から坑道に向かって進んだ。

 フランス軍はアッコ守備隊が堀の外縁壁(カウンタースケープ)に現れているのに気づいて砲撃を行った。

 アッコ守備隊に損害を与え、夜の間に撃退することができたが、アッコ守備隊はすでに坑道を崩落させてフランスの作業員を生き埋めにしており、工兵士官が駆けつけてくる前までに坑道から姿を消していた。

 もし砲兵隊の指揮官の上申が無ければ、少なくとも5日夜に第1塔(主塔)と第2塔の間の崩壊した城壁前の堀の外縁壁(カウンタースケープ)に新たな突破口が開かれるはずだった。

 しかしその計画は現時点で不可能となり、次の総攻撃は9日に行われる計画となった。

 それまでの間に再び堀の外縁壁(カウンタースケープ)の地下まで坑道を掘り、爆破する必要があった。

 こうして大きな古い塔に開けた突破口が攻撃を継続できる唯一の地点となった。

 フランス軍の中にこの数日の遅れが将来どのような結果をもたらすかを完全に理解している者はいなかった。

グルニエ師団のトリノからの出発

1799年5月6日、グルニエ師団のトリノからの出発<第2次対仏大同盟戦争>

※1799年5月6日、グルニエ師団のトリノからの出発

 5月6日、グルニエ師団はモロー将軍とともにトリノの反乱を鎮圧するとすぐにアレクサンドリア周辺地域を防衛しているヴィクトール師団と合流するために出発した。

 セージア川のほとりにあるカンディアの対岸を離れてカザーレ・モンフェラートに向かったヴィクトール師団は、その後一部兵力を残してヴァレンツァとアレクサンドリアを占領していた。

 ヴィカソヴィッチ旅団とローゼンベルク師団はすでにティチーノ川を渡ってセージア川に迫ろうとしており、もし進軍が遅くなってカザーレ・モンフェラートを失った場合、ヴィクトール師団との連絡線を遮断されてしまう可能性があった。

 そのためモロー将軍としてはそれを防ぎナポリ方面軍との合流まで持ち堪える必要があったのである。

 モロー将軍はフィオレラ旅団とともに反乱の後処理、そして補給所と物資の撤収を行うために一時的にトリノに残った。

 連合軍がトリノ方面に進軍してくる可能性もあるため、物資を奪われるわけにはいかなかった。

 この時、アレクサンドリア周辺地域を占領しているヴィクトール師団は食糧が不足しつつあり、ヴェローナから約300㎞もの距離を撤退し続けていたため疲労が蓄積していた。

 イタリア方面軍全体に敗北による精神的疲労と重苦しい空気が蔓延していた。

 町や村の住民たちもフランス軍の連戦連敗を見て連合軍を解放軍として称え、フランス軍を敵視するようになっていた。

スイス戦線からイタリア戦線への増援部隊の派遣

 5月6日、マッセナ将軍の元にフランス政府から2通の書簡が届けられた。

 1通はマッセナへの命令書であり、もう1通はモロー将軍の手紙に基づくイタリア方面軍の状況に関する考察だった。

 フランス政府はマッセナに対しドナウ方面軍から15,000人を捻出してイタリア方面に増援として派遣するよう命じ、その代わりにフランス本国から10,000人の増援を送ることが書かれていた。

 マッセナはもう1通の書簡でイタリア方面軍の置かれた状況を理解し、15,000人の増援を送ることを了承したが、フランス政府はマッセナが要求したドナウ方面軍のイタリアからの撤退を了承せず、グレー・リーグ(Ligue grise)地域(現在のソンドリオ県)の防衛を命じた。

 マッセナは総裁たちに従い後方の部隊をかき集め、ゾロトゥルン(Solothurn)にいるザントライユ将軍に6個半旅団と3個騎兵連隊約15,000人の兵力を指揮させイタリアへ派遣した。

 これらの部隊は2日間隔で3個縦隊に分かれてイタリアへ進軍することになっていた。