シリア戦役 55:アスワンへの再々遠征とクセイル遠征及びエル・ロウ遠征の準備【ドゼー将軍の上エジプト征服】
Preparation for the Quseir and El Louh Expeditions
アスワンへの再遠征
※上エジプトの地域の位置関係
1799年4月中、ダヴー将軍がアシュートから北上している頃、クイタ(Kuita)を出発したハッサン・ベイ・ジェッダウィとオスマン・ベイ・ハッサン率いるマムルーク軍は追跡してくるベリヤード旅団を振り払うことができず、アスワンまで追い詰められていた。
※クイタはコプトス(キフト)の東にある現在のアル・ラキタ村のこと。
その後、マムルーク軍は滝(ナイルの急流)の上に登り、ヌビアへと逃亡した。
マムルーク軍をエジプトから追い払ったのを確認したベリヤード将軍は、その後ケナへの帰途についた。
途中、上エジプトの防衛と寄付金の徴収、ヌビアへ逃亡したマムルーク軍への対策のために、エップラー大佐率いる500人の守備隊をエスナに残した。
アスワンへの再々遠征
1799年5月9日頃、エップラー大佐はマムルーク軍がアスワンに戻り、そこで平和に暮らし、疲労と損失から回復しているという知らせを受け取った。
この時のヌビアは飢饉により悲惨な状態であり、マムルーク軍が生きていくには過酷な状況だった。
そのためマムルーク軍はフランス軍という危険はあるものの食糧のあるアスワンに戻らざるを得なかったのである。
そのようなことを知るはずも無いエップラー大佐は「マムルーク軍から最後の資源を奪い取らなければ彼らは再びエジプトに戻ってくるだろう」と判断した。
そこで数日前に200人の兵士とともにエドフに派遣していたルノー(Renaud)大尉に、アスワンに向かって進軍しマムルーク軍を滝(ナイルの急流)の向こう(ヌビア方面)に追い払うよう命じた。
クセイル遠征及びエル・ロウ遠征準備
※1818年のハルガ・オアシスが「El Wah(エル・ワゥ)」と表記されている古地図。「El War(エル・ウォー)」、「El Ouah(エル・オゥ)」などと表記されているものもある。
4月2日に行われたビル・エル・バールでの戦闘以降、ドゼー将軍の大きな懸念の1つは紅海にある港町クセイルに逃亡したヤンブー守備隊600人~700人とその背後のヤンブー国だった。
そのためケナでクセイルへの遠征軍の組織を開始し、クセイルの首長やアラビアの首長たちに使者を送り、彼らの使節を迎え入れた。
ドゼーはフランスの圧倒的な力と、アレクサンドリアからアスワン、カイロからレバノン山脈の中心まで築かれたフランス領土と統治の広がりを強調した。
そしてマムルーク朝による屈辱と搾取、メディナとメッカの最近の荒廃、マムルーク朝支配下での紅海貿易の衰退、アラビア諸国とイギリスとの利害対立を説きながら、ナイル川を支配するフランスがイエメンの馬やコーヒーと引き換えに、エジプトの穀倉地帯をアラビアの乾燥した土地に開放し、デルタ地帯の米、テーバイド地方の小麦を供給する用意があることを示した。
そして、フランス人は領主やイスラム教と戦うために来たのではなく、東洋の人々と商業をマムルーク朝の圧政とイギリスの独占から解放するために来たのだ、と伝えた。
イスラム教には勝者の法の中に神の意志を認める慣習があり、ドゼーはフランスによるイスラム教の保護、マムルーク軍を打ち破るほど強力なフランス軍との和平よって約束された商業上の利点、保護と贈り物の適切な分配により、すぐに紅海の両岸の部族と民族がドゼーの周囲に集まった。
首長たちは妻や子供たちを連れて海や砂漠を越え、フランスのスルタンの保護下に入り、フランス軍の覇権に敬意を表した。
首長たちは緑のターバンを巻き、白いマントを肩にかけ、馬に乗ってケナに到着し、従者が乗ったヒトコブラクダの長い列がその後に続き、フランス軍にクセイルの占領を要請した。
※緑のターバンはイスラム教の創始者であるムハンマド(マホメット)が身に着けていたターバンの色である。当時、ムハンマドの子孫だと自称する一族(サイイド)は、編み込んだ髪で2つの房を作り、緑のターバンを身に着けていたと言われている。
当時、古代の洞窟人から派生したと考えられていた黒い肌とヨーロッパ人の顔立ちをした好戦的な遊牧民であるアバブダ(Ababda)族は、ナイル川と紅海の間に広がる東部砂漠の谷間に住んでいた。
アバブダ族はキャラバンの指揮と防衛を専業としており、代表団をケナに派遣した。
代表団は槍を手に持ち、左腕に丸い盾を下げてドゼー将軍の前に現れ、援助と同盟を申し出た。
彼らは役に立つ補助者であり、ドゼーは代表団に贈り物を渡した。
その後、アスワンから帰還したばかりのベリヤード将軍にクセイルへの進出準備を急ぐためにケナに砦を建設するよう命じ、行政組織を形成したばかりのテーベ州の指揮を一任した。
これらの取り決めの後、ドゼー将軍はケナからギルガへ行き、そこでモランド旅団長にギルガの指揮権を委ねた。
5月中旬頃、ドゼーはアシュートに向けて出発した。
ドゼー将軍は度々ハルガ・オアシスからやってくるムラード・ベイを叩き潰すためにエル・ロウ(ハルガ・オアシス)遠征を計画していた。
そのためエル・ロウ遠征の拠点となるアシュートへ向かったのである。
※古地図にはハルガ・オアシス周辺地域のことがエル・ウォー(表記的には「El Wah」、「El War」、「El Ouah」などがある)と書かれている。エル・ロウはベルティエの回想録に書かれている呼び名であり、ベルティエの回想録は固有名詞のスペルが実際と異なる場合が多いため恐らく口述筆記されている。現地民がハルガ・オアシス周辺地域をエル・ウォーやエル・オゥに似た発音でと呼んでいたこともありベルティエの回想録ではエル・ロウになったのだと考えられる。
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