シリア戦役 62:シリアからの撤退宣言とボン将軍の死亡
Declaration of withdrawal from Syria and death of General Bon

アッコ軍の10度目の出撃

 1799年5月16日、ボナパルトは銃剣の3つの刃すべてを直ちに研ぐよう命令した。

※アッコ軍の出撃を察知したか、もしくは撤退のための準備だろう。

 午前2時30分、アッコ軍は要塞からの出撃を開始した。

 しかし、死体を犠牲にして抵抗するフランス軍に激しく攻撃され、甚大な損害を被って撃退された。

 午前7時、アッコ軍はあらゆる地点から再び出撃を開始したが。どの地点でも同じような抵抗に遭遇し、塹壕を突破することはできず、砲台からの砲撃を受け、銃剣を突きつけられた状態で拠点への撤退を余儀なくされた。

 辺り一面はアッコ軍の兵士の死体で覆われていた。

 この壮絶かつ血なまぐさい戦いで、フランス軍の戦死者はわずか20人、負傷者は50人に留まったと言われている。

シリアからの撤退の宣言

 そして翌17日(フロレアル28日)、兵士に撤退の宣言を行った。

「兵士諸君、諸君はアラブ軍よりも速く、アフリカとアジアを隔てる砂漠を横断した。エジプト侵攻のために進軍していた軍(ジェザル・アフマド・パシャ軍)は壊滅した。
諸君は将軍、野戦装備、水袋、そしてラクダを捕獲した。
諸君は砂漠の井戸を守る要塞をすべて占領した。エジプトを略奪しようとアジア各地から押し寄せてきた大群(ダマスカス連合軍とナブルス軍)を、タボル山の野に散らせた。
12日前、諸君がアッコ前に到着した30隻の船は、アレクサンドリアを包囲する軍(ロードス島軍)を乗せていた。しかし、アッコに急行せざるを得ず、そこで命を落とした。エジプトへの入城の際に、その旗のいくつかが飾られるであろう。
ついに、少数の兵と共にシリア中心部で3ヶ月間戦いを耐え抜き、野砲40門、旗50本を鹵獲し、6,000人の捕虜を捕らえ、ガザ、ヤッファ、ハイファ、アッコの要塞を破壊した後、我々はエジプトへ戻る。(エジプトへの)上陸作戦の季節が私を呼び戻したのだ。
あと数日あれば、宮殿の真ん中にいるパシャを捕らえることもできただろう。しかし、この時期にアッコ城を占領するために数日を費やす価値はない。そうでなければそこで失うことになる勇敢な兵士たちは、今はより重要な作戦のために必要だ。
兵士諸君、我々は困難と危険に満ちた戦いを強いられるだろう。この作戦で東洋勢力を無力化した今、西洋勢力の一部の侵攻を撃退しなければならないかもしれない。
そこで新たな栄光の機会が見つかるだろう。
そして、これほど多くの戦いの中で、毎日勇敢な男が亡くなるというのなら、新たな勇敢な男たちを育成し、危険に直面して勢いをつけて勝利を確実にする少数の勇敢な男たちの中で順番にその地位を占めなければならない。」

砲兵司令官への撤退指示

 シリアからの撤退宣言の後、ボナパルトは各将軍に命令を発した。

 ドマルタン将軍に5月17日夕方までに24ポンド砲弾とぶどう弾の残弾をすべて発射し、同夜11時までに24ポンド砲3門とその砲台をタントゥーラに向けて出発させるよう措置を取り、 19日正午までに全部隊を野営地に戻すよう手配するよう命じた。

 そしてタントゥーラで砲を積むための馬と馬具をヤッファからタントゥーラへ送るよう指示した。

 この指示は、もしタントゥーラで砲を積むことができなかった場合、将校の馬、さらには騎兵隊の馬を使ってこれらの砲をヤッファまで運搬しなければならなくなることを考慮してのものだった。

 加えて今夜に故障した鉄製の18ポンド砲2門を海に投機するよう命じた。

 各師団長は各人が50発の射撃を完了するよう命令を受けており、その発射が終わり次第、12ポンド砲と18ポンド砲を海に投げ込むこととなっていた。

 そして19日夜~20日未明までの間にその他の3門の18ポンド砲、迫撃砲、持ち去られなかったすべての砲弾、および2門目の12ポンド砲も海に投げ込む予定だった。

 最後にドマルタン将軍は工兵隊に指定された量の火薬を引き渡すよう命じられた。

工兵司令官への撤退指示

 次にカファレッリ将軍の後任の工兵司令官であるサンソン少将は20日に水道橋の点検室または尖塔5箇所と水道橋の2区間、炉が設置されているモスクの柱と移動野戦病院の四隅を爆破するよう命じられた。

 そして20日夜から21日未明に最初の命令でハイファ砦と囲い地の主要地点6箇所を爆破できるよう準備を整えるよう命じられた。

ランヌ将軍とミュラ将軍への撤退指示

 ボナパルトは治療中のランヌ将軍に負傷者と病人の護衛任務を与えた。

 その任務とは、18日午前3時に第69半旅団の1個大隊を先行させ、19日に第69半旅団の残りとボン将軍をはじめとする師団に残る負傷者とともにハイファに向かうというものだった。

 そのためボナパルトは19日午前3時半までにランヌ将軍にアッコ前の野営地に来るよう命じた。

 そしてミュラ将軍にはハイファでの兵站任務が与えられた。

ジュノー将軍への撤退指示

 ヨルダン川を警戒するジュノー将軍の立場は重要だった。

 ジュノー旅団は、同行している女性、荷物、負傷兵(歩兵、騎兵)を直ちにハイファへ護送しつつダマスカス方面からの追跡を警戒する殿の役割を果たさなければならなかった。

 ヨルダン川沿いのすべての製粉所を焼き払い、ティベリアの倉庫に残っていた小麦やオート麦などをすべて売却、譲渡、または焼却し、砦にあった大砲を破壊し、19日午後2時にサフォーレの高地に陣取るよう命じられた。

 そしてナザレからフランス人を撤退させるよう指示された。

シドニー・スミス将軍によるフランス軍の撤退の予兆の察知

 5月17日から撤退準備を開始したが、このフランス軍の動きはシドニー・スミス将軍は察知していた。

 そしてそのことを記した書簡をフランスの総司令官に送った。

ボン将軍の死亡

「未完成のボン将軍の肖像」。作者不明。

※「未完成のボン将軍の肖像」。作者不明。

 総司令官の命令を受け取った各将軍達がアッコからの撤退準備を行っている5月19日、5月10日の総攻撃時にアッコ城壁の前で銃弾を受けて致命傷を負ったボン将軍(40歳)が死亡した。

 ボン将軍は自身の負った傷(下腹部から臀部を貫通する傷)が致命傷だと分かっており、治療を拒否していた。

 第一次イタリア遠征の途中からナポレオンの指揮下に入ったボン将軍はエジプト遠征隊にも選ばれあらゆる場面でナポレオンと行動をともにした。

 将軍としてのすべての資質を有していた優秀な将軍だったと言われている。

 フランス本国には妻と2人の子供が残されていた。

※妻:マルグリット・ファラヴィエ(Marguerite Falavier)、10歳の娘:ルイーズ=ジュスティーヌ・ボン(Louise-Justine Bon)、6歳の息子:ジョゼフ=ルイ=アンドレ・ボン(Joseph-Louis-Andre Bon)

 この日、ランヌ師団がハイファに出発する予定となっていたが、負傷者や病人の搬送の遅れもあり、出発は翌20日に延期されることとなった。