シリア戦役 60:マイソール王国軍の降伏とペレー艦隊のトゥーロンへの帰還の決断
Surrender of the Mysore army
ティプー・スルタンの死とマイソール王国軍の降伏
※ヘンリエッタ・エリザベス・マーシャル(Henrietta Elizabeth Marshall)の著作「インドの物語:少年少女へ語る(India's story : told to boys and girls) 」1912年出版の表紙絵。ジョセフ・ラトクリフ・スケルトン(Joseph Ratcliffe Skelton)画。ティプー・スルタンの死体を発見した場面。
1799年5月13日、1779年以降、断続的に続いたマイソール王国とイギリスとの戦争に終止符が打たれた。
マイソール王国は2月にイギリスに宣戦布告されて第4次マイソール戦争が始まった。
イギリス軍の総司令官はアーサー・ウェルズリーの兄リチャード・ウェルズリーだった。
ティプー・スルタン率いるマイソール王国軍は敗北し続け、4月5日、イギリス軍の前衛が首都シュリーランガパトナを包囲する前段階としてカーヴェリ川の岸に到達し、その後首都シュリーランガパトナは約50,000人の軍に包囲された。
5月下旬から6月上旬に始まるモンスーン期には川の水位が上昇し城壁への接近が不可能となるためイギリス軍は迅速に攻城準備を開始した。
城壁の周囲に土塁が建設され、ティプー・スルタンはそれを妨害しモンスーン期までの時間稼ぎをするために出撃を繰り返した。
マイソール王国軍は約30,000人で抵抗し城壁の北側に建築中だった砲台を掃討することに成功したが、城壁南側の砲台に重砲が配備され、城壁への砲撃が開始された。
5月2日の日の出頃、多くの砲弾により外壁に突破口が開かれた。
3日夜、何人かの将校が斜面を越えて砦の突破口と攻撃方法を調査した。
その結果、翌4日正午頃に総攻撃を開始することが計画された。
この時、予備部隊を将来のウェリントン公であるアーサー・ウェルズリー将軍が率いていた。
この総攻撃はシュリーランガパトナ内の内応者とも連携しており、合図が出される手筈となっていた。
そして5月4日午後1時、砲撃が開始された。
ティプー・スルタンに最後まで忠誠を誓っていたサイード・アブドゥル・ガッファール(Sipahsalar Sayyid Abdul Ghaffar Sahib)が砲弾に倒れると内応者が砦から白い布で合図を送り、それを見たイギリス軍は突撃を開始した。
城壁は突破され、ティプー・スルタンは戦死した。
その後、マイソール王国首都シュリーランガパトナは占領された。
強力な指導者であるティプー・スルタンを失ったマイソール王国軍は5月13日に降伏し、これ以降、イギリスはマイソール王国領を勢力下に置くこととなった。
エジプト遠征開始当初、ナポレオンはスエズからインドへの派兵を構想していたがシリア遠征で多くの指揮官と兵士を失っていた。
加えてヨーロッパでは第2次対仏大同盟戦争が開始されフランス軍は危機的状況に陥っているだろうと考えられた。
そのためインドへ派兵しマイソール王国と協力してイギリスの資金源を断つという当初の構想はすでに夢物語でしかなく、インド派兵はすでにナポレオンの戦略構想から外されていた。
マイソール王国のその後
イギリスはマイソール国王に前王家の5歳になろうとしているクリシュナ・ラージャ3世を擁立して藩王国とした。
それから約150年後の1947年8月15日、マイソール藩王国はインド・パキスタン分離独立時にインドを選びマイソール州となった。
1973年、マイソール州はカルナータカ州と改称した。
戦列艦「テセウス」のヤッファ沖からの帰還
※「St. John Of Acre, Defended by the English, 2d May 1799」。1803年6月3日。軍医スペルズベリー(F.B.Spilsbury)のスケッチを元に作成された版画。左の戦列艦が「テセウス(Theseus)」、右の戦列艦が「ティーグル(Tigre)」。
ミラー艦長が指揮する戦列艦「テセウス」は、シドニー・スミス代将の指示で5月10日から3日間ヤッファ沖に滞在していた。
シドニー・スミス将軍の元にはフランスのフリゲート艦数隻がアレクサンドリアからヤッファへ物資と武器を運ぶために航行中であるという知らせが届けられていたため、ミラー艦長にそれらを迎え撃つよう命じたのである。
ミラー艦長にはオスマン帝国の青い旗が託されており、この青い旗はスルタンの権力を付与するものだった。
テセウスは無事ヤッファ沖に到着したが、フランスのフリゲート艦隊はヤッファ港にもどこにも見当たらなかった。
そのためテセウスは、その後、アッコでの戦いに戻るためにヤッファ沖を離れてカイサリア港に向かった。
テセウスのアッコへの帰還中の事故とミラー艦長の死
1799年5月13日、テセウスはカイサリア港に到着し、ミラー艦長は翌14日のフランス軍によるアッコ要塞への砲撃に備えて戦いの準備を命じた。
艦の砲で使用するために大量の弾薬が甲板に運び込まれ、18ポンド砲弾50発、36連装榴弾砲砲弾20発、合計70発が準備され、使用準備が整えられていた。
5月14日午前9時30分、カイサリア港からアッコへの航行中、テセウスに積載した弾薬が誤って発火し、爆発を引き起こした。
甲板、メインマスト、ミズンマストが爆発により炎上し、ミラー艦長含む20人が死亡し、その他に45人の乗組員が負傷した。
炎はテセウスの甲板間に急速に広がり、弾薬庫の2回目の爆発により船尾甲板と後甲板が破壊され、右舷船首のメインマストが倒れた。
鎮火までにさらに9人が死亡し、テセウスはアッコ方面作戦には参加できなくなった。
※テセウスに乗船していたイングランド中尉からシドニー・スミス将軍への報告書には「この爆発による我々の損失は非常に大きく、私は嘆いています。そして残念ながら、ミラー艦長もその中の1人であり、死者は20人、溺死者は9人、負傷者は45人です。」と書かれている。
アッコ要塞周辺地域からの負傷者と病人の搬送
5月13日、アッコからの撤退を決意したボナパルトは、レイニエ将軍にラムレの負傷者と病人をハイファに搬送するよう命じた。
ハイファから海路と陸路の両方を使ってタントゥーラへ搬送するのであるが、海路はシドニー・スミス将軍が監視しており、陸路はカルメル山を越える必要があった。
そのため海路は夜陰に紛れて出航することとなった。
ボナパルトの計画では5月18日夕方の段階でハイファやカルメル山に負傷者などが残っていない状況となり、ハイファで指揮するために負傷者を護衛するランヌ師団は19日夜から、主力軍のアッコからの撤退は20日未明に開始され、6月1日にはカイロに到着することとなっていた。
ボナパルトは表ではアッコ要塞で戦いつつ、裏では負傷者と病人の搬送、そして撤退準備を行った。
チェバ要塞の降伏
5月14日、イタリア戦線ではチェバの要塞が降伏し反乱軍に占領された。
この時点ではモロー将軍はこのことは知らなかったが、これによりクーネオからジェノヴァへの最短ルートはチェバの町を取り戻すまで通行不能となった。
チェバを包囲していた反乱軍はモンドヴィへ向かった。
ペレー将軍のトゥーロンへの帰還の決断
※1799年5月中旬頃、ペレー将軍が想定したであろうトゥーロンへの帰還ルート
5月15日、テセウスがカイサリア港からアッコへ向かう途中に炎上したとの知らせを受けたシドニー・スミス将軍はトルコ艦船3隻を率いてアッコを出発しペレー少将率いるフリゲート艦隊を発見した。
※シドニー・スミス将軍に発見されていることから、ペレー艦隊はアッコ近海にいたのだろうと考えられる。
シドニー・スミス将軍はこの艦隊をすぐに追跡したが、フリゲート艦隊は瞬く間に追跡を逃れた。
アッコから遠く離れるわけにはいかなかったシドニー・スミス将軍は深追いをせず、すぐにアッコに帰還した。
その後、難を逃れたペレー少将は部下たちと協議し、物資不足のためマルタ島とチュニジアの間にあるペラージュ諸島最大の島であるランペドゥーザ(Lampedusa)島を経由してトゥーロンに戻り、水を補給する必要があると決断した。
不可避の場合を除きヨーロッパへ向かわないよう明確な命令が出されていたが、ペレー少将はヨーロッパへ向かう決断をしたのである。
※ペレー少将はヨーロッパ情勢の情報を最も得やすい立場にあった。もしかしたらエジプトやシリアよりもフランス本国の危機に対応するために、「水を補給する」という口実で帰還を決断したのかもしれない。
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