シリア戦役 61:サン・ジュリアーノの戦い【イタリア戦線】
Battle of San Giuliano

フェルスター師団のポー河南岸への渡河とスヴォーロフ軍のポー河北岸への渡河準備

1799年5月13日~15日、フェルスター師団の道程と連合軍の配置

※1799年5月13日~15日、フェルスター師団の道程と連合軍の配置"

 1799年5月15日、カンビオでの渡河を諦めたフェルスター師団がカステルヌォーヴォ・スクリーヴィアに入り、サーレ(Sale)の野営地に到着した。

 カンビオから撤収したフェルスター師団は5月13日にサン・ナッツァーロ・デ・ブルゴンディ(San Nazzaro de Burgondi)の本部を出発し、メッツァーナ・コルテ(Mezzana Corti)に架けた舟橋でポー川を渡り、14日にポンテクローネ(Pontecurone)、15日にサーレの野営地に到着したのである。

 この時、スヴォーロフ軍はノヴィ、サン・ジュリアーノ・ヴェッキオ、サーレ、アルヴィオーニ・カンビオに部隊を置き、スピネッタ(Spinetta)、マレンゴ(Marengo)、カステル・チェリオーロ(Castelceriolo)に前哨基地を置いていた。

 スヴォーロフはポー河北岸へ渡河するために橋を建設中であり、各師団に移動準備を整えさせていた。

 北岸への渡河は翌16日の午後から開始される予定となっていた。

 この時点でスヴォーロフ元帥率いる連合軍の兵力は約3万6000人であり、モロー将軍率いるフランス軍の兵力は約2万5000人だった。

サン・ジュリアーノの戦いの始まり

 5月15日、攻勢をかけてノヴィとジェノヴァとノヴィの間にあるボケッタ峠(Passo della Bocchetta)を通ってジェノヴァとの連絡線を開通させるためにボルミダ川への舟橋建設を行っていたモロー将軍は、連合軍が北に向かっていることに気付いた。

 そしてボルミダ川の舟橋は15日中には完成する予定となっていたため、ヴィクトール将軍に対し16日未明に大規模な偵察を開始することを命じた。

 午前6時、フランス軍は杉林の中に架けた舟橋で渡河を開始してボルミダ川東岸へ前進し、午前8時に2個縦隊に分かれて小さな石垣に隠れた。

 左翼縦隊はコッリ少将が、右翼縦隊はガルダンヌ少将が率い、ガロー少将は2個大隊(約1,500人)で舟橋の防衛にあたった。

 これらの軍の合計は約7,500人だった。

 コッリ旅団はペデルボーナ(Pederbona) へ、ガルダンヌ旅団はストルティリョーナ (Stortigliona)へ向かった。

 16日午前9時、フランス軍は連合軍と交戦し、マレンゴのカラチャイ旅団の前哨基地を制圧した。

 しかしマレンゴの前哨基地への攻撃時、フランスの士官がコサック隊に捕らえられフランス軍の規模が漏れてしまった。

 そこに駐屯していたカラチャイ将軍指揮下の軍は撤退し、トッレ・ガロフォリのオーストリア軍陣地に使者を送った。

 その後、フランス軍の前衛隊は瞬く間にスピネッタとカッシーナ・グロッサ、カステル・チェリオーロから前衛であるカラチャイ旅団を追い出した。

※これ以降、カラチャイ将軍の名前は資料に出てこない。カラチャイ旅団はガヴィを出発してマレンゴに向かっていた。しかしそこにはフレーリヒ師団の前衛がいたはずである。カラチャイ旅団がマレンゴ周辺地域をポー河に向かって進軍している時に襲われたのか?それともカラチャイ旅団がマレンゴ周辺地域の防衛をフレーリヒ師団前衛と交代したのか?もし交代したとしたらフレーリヒ師団前衛は本体と合流したのか?など、この時の状況がどうだったのかは資料を見つけられなかったため不明となっている。

ルシニャン師団(フレーリヒ師団)の前進

 連合軍は完全に不意を突かれ、フランス軍接近の知らせが午前9時にトッレ・ガロフォリ陣地に届けられた。

 この時、フレーリヒ将軍の代わりにルシニャン将軍が師団を率いており、フレーリヒ師団はメラス将軍指揮下だった。

 しかしトッレ・ガロフォリにメラス将軍はおらず、フレーリヒ将軍も不在だったため、現場の最高階級だったルシニャン将軍に判断が求められた。

 ルシニャン将軍はすぐにサーレの総司令官に指示を仰ぐために伝令を派遣した。

 しかしサーレまで約10㎞であり、スヴォーロフ元帥の指示を待つ余裕は無かった。

 ルシニャン将軍は早急に近くにいるカイム将軍と軍事会議を開いた。

 カイム師団約5,000人は16日早朝にトッレ・ガロフォリに到着したばかりであり、疲労により戦闘を行うのは不可能だった。

 そのためルシニャン将軍は麾下の師団約5,400人でフランス軍と戦うことを決意した。

 ルシニャン将軍はすぐにトッレ・ガロフォリにいた7個大隊、6個騎兵中隊を前進させた。

※ルシニャン将軍の指揮下にはトロイエンフェルト大佐とソンマリーヴァ少将という2人の旅団長がいた。恐らくトロイエンフェルト旅団約3,400人はルシニャン将軍が率いてトッレ・ガルフォリにおり、ソンマリーヴァ旅団約2,000人はサン・ジュリアーノにいたと考えられる。ルシニャン将軍はまずソンマリーヴァ旅団をサン・ジュリアーノの前に展開させ、トロイエンフェルト旅団の一部をトッレ・ガルフォリに残してサン・ジュリアーノに向かわせたのだろう。

両軍の配置

1799年5月16日、サン・ジュリアーノの戦い前の両軍の状況

※1799年5月16日、サン・ジュリアーノの戦い前の両軍の状況

 トッレ・ガロフォリから出発したルシニャン将軍は師団をサン・ジュリアーノの前(サン・ジュリアーノ・ヴェッキオとサン・ジュリアーノ・ヌオーヴォの間)で2列に布陣させ、その両翼はバグラチオン旅団によって支援された。

 中央を形成するルシニャン師団約7,400人はスピネッタとサン・ジュリアーノ・ヴェッキオを繋ぐ幹線道路の右側に第一線として2個大隊、左側に4個大隊(1個歩兵連隊、1個大隊)が配置され、第一線から約200m東に第二線として2個大隊と5個騎兵中隊が配置されていた。

※中央を形成するルシニャン師団は8個大隊、5個騎兵中隊であり、トッレ・ガロフォリでルシニャン将軍が前進させた7個大隊、6個騎兵中隊と数が合わない。恐らくトロイエンフェルト旅団をソンマリーヴァ旅団とサン・ジュリアーノで合流させたのだろう。騎兵中隊に関してはソンマリーヴァ旅団は1個騎兵中隊を擁しており、2個騎兵中隊を最両翼の砲兵隊の護衛に向かわせているため、中央としての騎兵中隊数はこれでよい。

 この時、既にノヴィを出発していたバグラチオン旅団約4,100人はサン・ジュリアーノを経由するルートでカンビオへ向かっている途中であり、サン・ジュリアーノを通過しようとしているところだった。

 そのため前衛の2個騎兵連隊約800騎、4個歩兵大隊約1,600人はサン・ジュリアーノを通り過ぎて右翼を形成し、後衛の1個騎兵連隊約400騎、2個歩兵大隊約1,300人はサン・ジュリアーノで左翼を形成した。

 連合軍の最両翼には砲兵隊が配置され、騎兵隊で護衛された。

 そしてフェルスター師団約5,000人が予備としてサーレ、ローゼンベルク師団約4,000人がカステルヌォーヴォ・スクリーヴィアにおり、ゼッケンドルフ旅団約3,500人はトルトナ要塞を包囲していた。

 一方、フランス軍は、左翼のコッリ旅団がカステル・チェリオーロ周辺、右翼のガルダンヌ旅団がカッシーナ・グロッサ周辺に展開していた。

 そしてフランス軍の両翼にも砲兵隊が配置されていた。

 フランス軍(コッリ旅団とガルダンヌ旅団)の合計は約6,000人であり、連合軍(ルシニャン師団とバグラチオン旅団)の合計は約11,500人だったが、連合軍は不意を衝かれており完全には戦闘態勢が整っていなかった。

 しかしルシニャン師団とバグラチオン旅団の背後にはとフェルスター師団約5,000人が控えていた。

両軍の激突とフェルスター師団及びカイム師団の前進の開始

 両軍は向かい合い、前進を開始した。

 隊列を組んだ兵士たちは太鼓が打ち鳴らしながら敵に向かっていった。

 そして午前10時、激しい銃撃戦が始まった。

 コッリ将軍は旅団を2列に並ばせて小隊単位で射撃を行い継続的にバグラチオン将軍率いる右翼を攻撃し、ガルダンヌ旅団は猛烈な勢いで連合軍中央に攻撃を行った。

 フランス軍は時折ラ・マルセイエーズを歌いながら戦い、銃声をかき消したと言われている。

 ルシニャン師団はフランス軍の攻撃を撃退した一方、バグラチオン旅団はフランス軍の攻撃に耐え兼ねて後方の森へと後退した。

 そのためルシニャン師団の右側面に隙が生じた。

 正午頃、それにともなってルシニャン師団と左翼軍の一部が後退を余儀なくされた。

 この後退はコサック騎兵隊の支援を受けつつ態勢を立て直すことを目的としていた。

 コサック騎兵隊は追撃してくるフランスの1個騎兵中隊を壊滅させ、78人の捕虜を捕らえた。

 連合軍は態勢を立て直し、反撃の機会を窺った。

 フランス軍の攻勢を知ったスヴォーロフはフェルスター師団とカイム師団に前進を命じた。

カイム師団の戦場への到着とフランス軍の撤退

 態勢を立て直した連合軍中央と左翼は前進した。

 コッリ将軍は側面攻撃を行いバグラチオン旅団が守るサン・ジュリアーノ村へ攻撃を仕掛けた。

 バグラチオン旅団はこの2回目の攻撃を撃退し、コサック騎兵隊を率いてフランス軍軽騎兵中隊を全滅させ、フランス歩兵の一部を切り離してタナロ川沿いに釘付けにし、これをほぼ壊滅させた。

 午後4時頃、カイム師団が戦場に到着し始めたのが見えるとモロー将軍は撤退を命じた。

 その後、連合軍の優勢な兵力を見たモロー将軍はコッリ旅団とガルダンヌ旅団を殿として撤退を組織した。

 午後5時、フランス軍は負傷兵を置き去りにしてマレンゴを放棄し、午後6時にはボルミダ川に架けた舟橋を渡って撤退を完了させた。

 連合軍による追撃は遅々として進まなかったためボルミダ川に橋を1つしか架けてなかったにもかかわらずフランス軍は整然と撤退することができたのである。

 その後、フランス軍はボルミダ川に架けた舟橋を破壊した。

 スヴォーロフ元帥は騎兵隊とともに戦場に駆け付けたが、フランス軍はほぼ撤退しており追撃命令は間に合わなかった。

 午後6時30分、連合軍がボルミダ川岸で偵察活動を行っているのをフランス兵が確認した。

 戦いの報告を聞いた後、スヴォーロフ元帥は追撃しなかったことに不満を抱き、「敵を逃がしてしまった」と苛立ちを込めて言ったと言われている。

サン・ジュリアーノの戦いの後

 サン・ジュリアーノの戦いにおける両軍の損害はほぼ同数で、それぞれ500人~600人だったと言われている。

 戦いの翌日(17日)、スヴォーロフはコサックの長であるデニソフに戦闘の経過とロシア軍の参加について尋ねた。

 その際、デニソフは仲が悪かったバグラチオン将軍のことを聞かれた。

「バグラチオンはうまく攻撃し、銃剣を使ったか?」

 デニソフは戦いが始まった当初の不利な状況の時をスヴォーロフに伝えたのではないかと言われている。

 しかし、後にバグラチオン将軍はこの戦いの功績が認められ聖アレクサンドル・ネフスキー勲章を授与されているためデニソフの話は一部のみを切り取ったものだということが判明したのだろう。