シリア戦役 54:モロー将軍率いるイタリア方面軍のアレクサンドリア周辺地域への集結とマクドナル将軍率いるナポリ方面軍のローマからの出発
Preparing for re-entry into the A㏄o Fortress

連合軍のポー河南部地域への進出と圧迫

1799年5月7日、スヴォーロフ軍のポー河南部地域への進出<第2次対仏大同盟戦争>

※1799年5月7日、スヴォーロフ軍のポー河南部地域への進出

 1799年5月7日、メラス師団本体13,865人はカステル・サン・ジョヴァンニに到着し、トレッビア川沿いをジェノヴァ方面に南下していたモルツィン(Ferdinand Johann von Morzin)少将率いる分遣隊2,000人はボッビオに到着した。

 モルツィン将軍の分遣隊はパルマ方面に向かっているオット師団の右翼を支援することとなっていた。

 ローゼンベルク将軍は3,075人の先遣隊を率いてドルノ(Dorno)とその先に泥濘地が広がるロメッロ(Lomello)を占領し、バグラチオン旅団はフランス軍の前哨部隊を蹴散らしてヴォゲーラに集結した。

 右翼のヴィカソヴィッチ旅団5,100人はノヴァラに到着し、オット師団はピアチェンツァでポー河を渡りパルマ方面に向かっていた。

チロル軍の前進

 グラウビュンデン州東部でマッセナ将軍率いるドナウ方面軍が後退したため、ベルガルド将軍率いるチロル軍がガルチュールへと前進し、ダボス周辺地域を守るルクルブ師団所属のスーシェ旅団と対峙しようとしていた。

 ベルガルド将軍はグラウビュンデン州からフランス軍を排除した後、ザンクト・ゴッタルド峠を占領しスヴォーロフ元帥の指揮下に入ることとなっていた。

 しかしマッセナは、「チロル軍はホッツェ師団とともにスイスへ侵攻してくるだろう」と考えていた。

コンスタンティン大公のイタリア戦線への到着

 この日、ロシア皇帝パーヴェル1世の次男であるコンスタンティン大公(Grand Duke Konstantin Pavlovich)が軍を率いてロシアからウィーンとヴェローナを経由してスヴォーロフの元に到着した。

 スヴォーロフにとってコンスタンティン大公の参謀本部への参加は重要だった。

 スヴォーロフは連合軍総司令官という地位にあったもののウィーンの宮廷の意向に従わなければならず、政治的に弱い立場だった。

 イタリアにおけるスヴォーロフの戦略目標はピエモンテにおけるサルデーニャ国王の王権復活であり、オーストリアの戦略目標はピエモンテに衛星国を築くことだった。

 このままではスヴォーロフの目標は達成することができず、軍事面においてもウィーンの意向を強く反映させることになるだろうと予想された。

 しかしロマノフ家の血統であるコンスタンティン大公が到着したことによりスヴォーロフの政治的立場が強化されたのである。

 これによりスヴォーロフはより自由に采配を振るうことができるようになった。

 しかしメリットのみというわけでもなかった。

 一般的に組織にとって経験の少ない高位者はやっかいなものである。

 20歳になったばかりのコンスタンティン大公は堅苦しい宮廷生活から解放されており、彼を抑制できるのは厳しさと恐怖だけだった。

 コンスタンティン大公を抑制できるのはスヴォーロフのみだったが、スヴォーロフは総司令官という立場上、コンスタンティン大公にかまっている余裕は無かった。

ペスキエーラ要塞の降伏

1866年のペスキエーラ要塞

※1866年のペスキエーラ要塞

 5月7日、ペスキエーラ要塞とマントヴァ要塞の包囲を行っていたクレイ将軍はペスキエーラ要塞を占領した。

 ペスキエーラ要塞を守るフランス軍の物資が乏しく、早期(5月6日)の降伏を余儀なくされたのである。

 これによりペスキエーラ要塞の攻城に使用していた兵力と大砲をマントヴァ要塞の周囲に移動させ砲撃を強化することができるようになった。

イタリア方面軍のアレクサンドリア周辺地域への集結

 5月7日、モロー将軍はトリノを離れてアレクサンドリアに本部を移し、フィオレラ旅団はトリノに残った。

 同日、グルニエ師団はヴィクトール師団と合流し、その後衛旅団を率いるガルダンヌ将軍は2個軽歩兵半旅団の増援を受けた。

 そして1個半旅団をヴェッルーア(Fortezza di Verrua Savoia)へ、1個半旅団をヴィッラヌオーヴァ(Villanova d'Asti)へ派遣すると自らはグルニエ師団本体と合流するためにヴァレンツァへ向かった。

 モロー将軍率いる2個師団の兵力は約20,000人であり、右翼のヴィクトール師団はアレクサンドリア周辺地域、左翼のグルニエ師団はヴァレンツァ周辺地域を占領していた。

 モロー将軍の狙いはアレクサンドリア周辺地域の死守であり、約1ヵ月後までには来援するだろうナポリ方面軍到着までの時間稼ぎだった。

 アレクサンドリアはトリノ、ヴェルチェッリ、ミラノ、ピアチェンツァ、ジェノヴァ、サヴォナ、チェバへの道が交差する交通の要衝であり、ボルミダ川とタナロ川が合流する場所でもあった。

 北にはポー河が流れているため地形的に防衛しやすく、もし連合軍がトリノ方面に兵力を分散させた場合、内線作戦を行うこともできる可能性を秘めていた。

ナポリ方面軍のナポリからの出発

 同じく7日、イタリア半島のマクドナル将軍はイタリア北部への召集命令を受け取るとすぐにカゼルタから出発した。

 状況は逼迫していた。

 すでにピアチェンツァは連合軍によって占領され、ジェノヴァは北側から圧力を受けつつあった。

 ナポリ方面軍としてはまずはローマに帰還し、その後にリヴォルノの部隊及びボローニャのモンリシャール師団と合流する必要があったため、イタリア方面軍との合流にはそれなりに時間を要するだろうと考えられた。

 それはジェノヴァとピアチェンツァの間で連合軍を突破しなければならない可能性を示唆していた。

アレクサンドリアの半包囲

 5月8日、スヴォーロフの元にフランス軍がポー河南岸沿いにあるヴァレンツァ(Valenza)要塞から撤退したという知らせが届けられた。

 フランス軍がヴァレンツァを放棄したということはフランス軍はポー河での防衛を諦めたと考えられたため、コンスタンティン大公を擁するローゼンベルク師団にヴァレンツァに進軍するよう命じ、バグラチオン旅団にトルトナに向けて前進するよう命じた。

 この時、スヴォーロフはローゼンベルク将軍にフェルスター師団をポー河とタナロ川の合流点の約1.5㎞下流にあるアッルヴィオーニ・カンビオ(Alluvioni Cambio)でポー河を渡らせるよう命じており、アレクサンドリアを北側と東側から包囲しようとしていた。

 そのためヴェルチェッリに到着したヴィカソヴィッチ旅団もカザレ・モンフェラートに派遣していた。

 フェルスター師団はアッルヴィオーニ・カンビオの対岸にあるカンビオに向かい、ローゼンベルク師団はヴァレンツァに向かった。

トルトナの町の占領とサン・ヴィットーリオ要塞の包囲

1799年、トルトナのサン・ヴィットーリオ要塞平面図

※1799年、トルトナのサン・ヴィットーリオ要塞平面図

 5月9日、スヴォーロフ元帥の参謀長であるシャストレー将軍が前衛の2個大隊を率いフランス軍をトルトナの町から追い出したが、トルトナの城塞であるサン・ヴィットーリオ要塞(Forte San Vittorio)ではガスト(Gast)少将が事前に約1年分の物資(食糧や弾薬など)を運び込み籠城戦の準備を完了させて徹底抗戦の構えを見せていたため占領することはできなかった。

 包囲を担当したロペス(Philipp Lopez)将軍は、工兵から要塞の占領には5ヵ月かかると報告を受けていたにもかかわらず、「5週間もかからずに占領できる」と豪語したと言われている。

連合軍のスクリーヴィア川の渡河とアレクサンドリアの孤立

1799年5月10日、スヴォーロフ軍のスクリーヴィア川の渡河とアレクサンドリア~ジェノヴァ間の分断<第2次対仏大同盟戦争>

※1799年5月10日、スヴォーロフ軍のスクリーヴィア川の渡河とアレクサンドリア~ジェノヴァ間の分断

 スヴォーロフは前衛部隊にスクリーヴィア川を渡河させ、スピネッタ・マレンゴからフランスの前哨部隊を追い払った。

 オーストリア軍(フレーリヒ師団)もスクリーヴィア川を渡りサン・ジュリアーノ(San Giuliano Vecchio)の東側に陣取った。

 5月10日、カラチャイ旅団約3,600人はジェノヴァとアレクサンドリアの連絡路の1つを遮断するためにノヴィ(Novi)、セッラヴァッレ(Serravalle)、ガヴィ(Gavi)に向かった。

※恐らくカラチャイ旅団は、ガヴィ占領後にプレドーサ(Predosa)に進出し、アレクサンドリアからジェノヴァへの連絡線をすべて遮断することが目標だったのだろうと考えられる。

 バグラチオン旅団約5,500人も1~2日後にカラチャイ旅団に続いてノヴィに向かった。

 ジェノヴァに集結しているリグーリア共和国軍は5,000人~6,000人とみられており、それにロディとピッツィゲットーネから撤退してきた師団を加えると9,000人~10,000人だと想定された。

 スヴォーロフ元帥はカラチャイ旅団とバグラチオン旅団の合計約9,000人でジェノヴァ方面を担当する約5,000人のリグーリア共和国軍とアレクサンドリアのモロー本体(グルニエ師団及びヴィクトール師団)約20,000人との連絡線を遮断しようとしたのである。

 この時、フランス軍の後方にあるチェバで5月6日から反乱が発生しており、要塞が包囲されていた。

 イタリア方面軍は前面では連合軍に圧迫されて分断されようとしており、後方では反乱により後方連絡線の一部(クーネオからジェノヴァへの最短ルート)が遮断されていた。

 そのため前線への物資の供給が不安定なものとなり、兵士への影響が出始めた。

マクドナル将軍のローマからの出発とピッツィゲットーネ要塞の降伏

1722年~24年のピッツィゲットーネ要塞

※1722年~24年のピッツィゲットーネ要塞

 5月10日、ローマに到着したマクドナル将軍は、最も体力の劣る兵士2,568人をガブリエル・ヴェナンス・レイ(Gabriel Venance Rey)中将の指揮下に残してフィレンツェに向かった。

※ガブリエル・ヴェナンス・レイ(Gabriel Venance Rey)将軍は第一次イタリア遠征のリヴォリの戦いの時に重要な場面でリヴォリへの前進を躊躇した人物である。

 10日夕方、ピッツィゲットーネ要塞の周囲に新たな砲台が完成し、一斉砲撃が開始された。

 砲撃は24時間続き、11日夕方、ピッツィゲットーネ要塞は遂に降伏した。

 これにより要塞を包囲していたカイム師団、ゼッケンドルフ旅団、ホーエンツォレルン旅団と多くの大砲が前線に向かうことができるようになった。

 カイム師団とゼッケンドルフ旅団はスクリーヴィア川方面へ向かい、ホーエンツォレルン旅団はレッジョ方面に向かうこととなった。

グラウビュンデン州とソンドリオ県からのフランス支持者の撤退

 マッセナはホッツェ師団とチロル軍が前線に軍を集結させているといいう情報を掴んでいた。

 恐らくホッツェとベルガルドは共同作戦を考えており、グレーリーグ(ソンドリオ県)とグラウビュンデン州からの急速な撤退を強いることでマッセナとモローの繋がりを断ち、各個撃破しようとしているのだろうと予想された。

 グレーリーグとグラウビュンデン州に配置された兵力ではホッツェとベルガルドが率いる軍に対抗できないと考えられ、マッセナはもしこれらの軍が侵入の一歩を踏み出したらすぐに撤退することを決意していた。

 征服地を放棄することは身を切る決断だが、その地を維持することが不利益をもたらすならば放棄する必要がある。

 そのためグラウビュンデン州及びグレーリーグのフランス支持者を退避させるために使者を派遣した。

 しかしクール市はフランス軍の撤退に難色を示していた。

 マッセナは派遣されてきた市職員に「オーストリア軍に対する大規模な蜂起を組織できますか?」と質問した。

 市として大規模な蜂起を組織することは不可能だった。

 そしてグラウビュンデン人に武器を与えることは、敵にほぼ同数の援軍を提供することに等しいことだった。

 そのためグラウビュンデン州とグレーリーグのフランス支持者全員が軍に従う準備を整えた。