シリア戦役 64:モロー将軍のアレクサンドリアからの撤退とスヴォーロフ元帥のトリノへの進軍【イタリア戦線】
General Moreau retreated from Alexandria, and Marshal Suvorov marched towards Turin

モロー将軍のアレクサンドリアの放棄

1799年5月17日、モロー将軍のアレクサンドリアの放棄

※1799年5月17日、モロー将軍のアレクサンドリアの放棄

 サン・ジュリアーノの戦いに敗北したモロー将軍はノヴィ経由でのジェノヴァとの連絡線の開通を断念した。

 モローとしては天然の要害であるアレクサンドリアを防衛し、ジェノヴァとの連絡線を維持しつつナポリ方面軍の合流を待つつもりだった。

 しかし、チェバでの反乱により後方連絡線の1つが遮断され、もし反乱軍がチェバ要塞を陥落させトリノへ向かった場合、アレクサンドリアとクーネオやトリノへの退路は遮断されることとなる。

 トルトナ要塞へ救援に向かおうにも連合軍の方が数的優勢であるため容易に奪還することはできないと考えられた。

 モロー将軍には2つの選択肢があった。

 1つ目はドナウ方面軍と合流するためにスイス方面に向かうこと。

 2つ目はアルプス山脈とアペニン山脈で防衛することでジェノヴァ方面軍との連絡線を維持しつつナポリ方面軍の到着を待つことだった。

 1799年5月17日、モロー将軍は2つ目を選択し、ヴィクトール師団約7,200人を困難な道を通ってアックイとカイロ・モンテノッテを経由するルートでサヴォナに向かわせ、自身はグルニエ師団約8,000人とともにアスティを通るルートでトリノへ向かった。

 アレクサンドリアにはガルダンヌ将軍率いる3,000人の守備隊のみが残された。

チェバへの救援の派遣とモンドヴィの陥落

 5月18日、アスティにいたモロー将軍は悪い知らせを受け取った。

 チェバの司令官が何の抵抗もせずに降伏し要塞を明け渡したとのことだった。

 モロー将軍はガロー(Louis Gareau)少将とセラス(Jean-Mathieu Seras)大佐にそれぞれ2個大隊を与え、すぐにチェバに派遣した。

 この4個大隊はガロー将軍が指揮し、強行軍で移動することとなっていた。

 アスティを出発したガロー旅団は、チェバ、カッル、ケラスコ、アルバ、アスティ、アレクサンドリアの順に流れるタナロ川が氾濫していたため渡ることができなかった。

 そのためタナロ川左岸側を通ってアルバに向かった。

 そしてヴァレンツァとカザーレ・モンフェラートの司令官に要塞を破壊した後に部隊を撤退させるよう命じた。

 一方、モロー将軍はこれらの命令を出した後、すぐにアスティを発ちヴィッラヌオーヴァ(Villanova d'Asti)に向かった。

 この日、モンドヴィが反乱軍に降伏した。

 このような逆境の中でもモロー将軍は諦めることなく次善策を思考した。

連合軍のポー河渡河

 5月17日時点でスヴォーロフはモローがアレクサンドリアを放棄したことを知らなかった。

 そのためフランス軍がボルミダ川を渡って攻撃してきたことにより中断していたロメッリーナへの進軍を再開し、夜にメラス師団をカステッジョ(Casteggio)周辺地域に移動させた。

 5月18日、バグラチオン旅団はバスティーダ付近で舟橋を渡り、それにフレーリヒ師団が続いた。

 ローゼンベルク師団はアルビオーニ・カンビオでポー河を渡りヴァレンツァへ向かった。

 5月19日、スヴォーロフはサーレからヴォゲーラへ向かい、その後(恐らくメッツァーナ・コルティで)ポー河を渡河した。

 一方、フランス軍は18日にはカザーレ・モンフェラートとヴァレンツァをも放棄していた。

 ローゼンベルク将軍はカイム師団とともにヴァレンツァを占領し100人以上のロシア人負傷兵と34門の大砲を発見した。

 そしてフランス軍がいなくなったカザーレ・モンフェラートはヴィカソヴィッチ旅団によって占領された。

 ヴァレンツァでポー河を渡ったコサック騎兵がタナロ川まで偵察したがフランス軍の姿はどこにも見当たらなかった。

 モローがアレクサンドリアを放棄したことを確信したスヴォーロフはボルミダ川の東にいるシュヴァイコフスキー師団をアレクサンドリア占領のために派遣した。

 アルカイニ旅団はトルトナ要塞を封鎖し、ゼッケンドルフ旅団はアペニン山脈方面の防衛を担当した。

 オットとクレイはイタリア中部からのフランス軍の攻撃から後方を守った。

ヴィクトール師団のサヴォナへの撤退

 5月19日、アックイ付近を通過していたヴィクトール師団は反乱軍の攻撃を受けた。

 ヴィクトール将軍率いる部隊は大砲を有していなかったため反応しなかったが、その結果、前衛で大きな被害を被った。

 19日夜、アックイを出発したヴィクトール師団はボルミダ川を渡りデゴに到着したが、そこでも再び農民の攻撃を受け、激怒したフランス兵たちはデゴの村を略奪し、家屋に火を放った。

 5月20日、ヴィクトール師団はカイロ・モンテノッテにある倉庫に向かったが、再びライフルで武装した反乱軍の攻撃を受けた。

 その数日後、ヴィクトール将軍はサヴォナとジェノヴァに到着したが、荷物も砲兵もろとも難航する行軍中に置き去りにしていた。

反乱軍によるモンドヴィ占領を知ったモロー将軍の対応

 5月19日、モロー将軍とグルニエ師団はヴィッラヌオーヴァに到着し、ポイリーノとヴィッラヌオーヴァを占領した。

 そしてそこでモンドヴィが反乱軍に占領されたとの報告を受けた。

 モローはポー河のほとりにあるカリニャーノ(Carignano)とモンカリエーリ(Moncalieri)まで先遣隊を派遣していたが、モンドヴィを占領しトリノへ向かうと考えられる反乱軍を抑えるためにトリノへの進軍は中止され、先遣隊に本隊への合流命令を出した。

 それに加えてドゥルーオ(Drouot)大佐にクーネオとニースの間にあるフェネストレ峠(Colle delle Fenestrelle)を通ってフランスまで大砲や弾薬などの軍需物資を護衛するよう命じた。

 そしてすぐにグルーシー将軍にクーネオで部隊を集結するよう命じ、タナロ川左岸側をチェバに向かっていたガロー将軍に針路を変更してモンドヴィを占領するよう命じた。

※恐らくこの時、ガロー旅団はカッル(Carru)辺りまで進軍していたのだろうと考えられる。

 そして自身はサヴィリアーノ(Savigliano)へ向かった。

ガロー将軍のクーネオへの撤退

 5月20日、ガロー旅団はモンドヴィを攻撃し、これを占領した。

 この時、反乱軍はトリノへ向けて進軍していたためモンドヴィは手薄となっていた。

 ガロー将軍はそれを知ると主力軍(グルニエ師団)との連絡線が遮断されることを恐れてクーネオに撤退した。

 反乱軍はモンドヴィが占領されたことを知るとモンドヴィに戻った。

スヴォーロフ元帥のトリノへの進軍 1799年5月23日、スヴォーロフ元帥のトリノへの進軍開始

※1799年5月23日、スヴォーロフ元帥のトリノへの進軍開始。グルニエ師団は5月23日時点でヴィッラヌオーヴァにはおらずサヴィリアーノ周辺にいたが、分かりやすいようにグルニエ師団の動きを描いた。

 5月20日、メラス師団はモルターラに到着し、21日と22日にはセージア川に橋が架けられていたカンディア・ロメッリーナとランゴスコで就寝した。

 住民の噂ではフランス軍はアスティに向かったとのことだったが、その後の足取りは不明だった。

 スヴォーロフはモローがトリノに向かっているだろうと推測していたが、モローがトリノに撤退していようかいまいがトリノを占領することを決意した。

 トリノを掌握することでスイスとサヴォイア方面からのモローへの最後の増援と補給路を遮断するつもりだった。

 フランス軍は住民反乱によって足止めされ、飢餓によりピエモンテから撤退を余儀なくされ、その後ジェノヴァは自ずと陥落するだろうとスヴォーロフは計算していた。

 トリノには巨大な補給基地、多くの大砲、そして兵器庫があったという事実も、スヴォーロフの決断に大きな影響を与えた。

 後方には包囲し続けている要塞がいくつかあり、封鎖と包囲にこれほどの時間と労力、資材を費やしながらフランス軍と戦うのはあまりにも過酷だった。

 そのためトリノの資源があれば助けになると考えられた。

 5月23日、連合軍はメラス将軍とローゼンベルク将軍の指揮下でそれぞれ2個縦隊に分かれてトリノ(Torino)への進軍を開始した。

 メラス師団は2個縦隊に別れ、1つ目の縦隊はヴェルチェッリ(Vercelli)、サンティア(Santhià)、キヴァッソ(Chivasso)、2つ目の縦隊はトリノ(Trino)、クレシェンティーノ(Crescentino)、キヴァッソを通るルートでポー河左岸側を西進した。

 ローゼンベルク師団はすでに2個縦隊に分かれており、ヴィカソヴィッチ旅団はローゼンベルク師団前衛としてカザーレ・モンフェラートから右岸に沿ってトリノに向かい、カイム師団はヴァレンツァからカザーレ・モンフェラートを経由してヴェッルーア(Verrua)砦まで進軍した。