シリア戦役 59:モロー将軍率いるイタリア方面軍の攻勢準備とスヴォーロフ元帥によるポー河北岸への移動命令【イタリア・スイス戦線】
Marshal Suvorov ordered a movement to the north bank of the Po River
モロー将軍率いるイタリア方面軍の攻勢準備
※1799年5月13日、モロー将軍率いるイタリア方面軍の置かれている状況
1799年5月12日に行われたバッシニャーナの戦いではロシア軍が主に戦っており、モロー将軍はそれを観察していた。
そのためロシア軍はポー河北岸側を担当し、オーストリア軍はポー河南岸側を担当しているのだろうと予想した。
そしてジェノヴァ、アレクサンドリア、ヴァレンツァの戦線が強固なものであるため、連合軍はマクドナル将軍率いるナポリ方面軍に対応するためにイタリア半島方面に南下するだろうと考えていた。
しかし連合軍がジェノヴァとの連絡線を遮断しようと大部隊(カラチャイ旅団とバグラチオン旅団)を派遣したことを知ると、現時点で連合軍がイタリア半島方面に進軍することはないだろうと考えを改めた。
アペニン山脈への入り口にあるノヴィとガヴィが連合軍の手に落ちたことにより最も重要なアレクサンドリアからジェノヴァまでの連絡線の1つは完全に失われており、残されたアレクサンドリアからジェノヴァへの連絡線はオヴァダ(Ovada)を経由しストゥーラ川(Torrente Stura)を遡るルートしか残されていなかった。
そのためモロー将軍としては何としてでもスクリーヴィア川の向こうに連合軍を撤退させトルトナを取り戻す必要があった。
5月13日、モロー将軍は攻勢に出るべくボルミダ川への舟橋の建設を開始した。
スヴォーロフ元帥によるロメッリーナへの集結命令
※パヴィア県の3つの地域。
5月13日、スヴォーロフはポー河を渡ってパヴィア県北西部地域のロメッリーナ(Lomellina)へ集結するよう命じた。
※パヴィア県は大きく3つの地域に分かれている。1つ目はポー河北側でティチーノ川西側の北西部地域であるロメッリーナ。2つ目はポー河北側でティチーノ川東側の北東部地域であるパヴェーゼ。3つ目はポー河南の地域一帯であるオルポレト。
連合軍はナポリ方面軍とイタリア方面軍をほぼ分断しており、アレクサンドリアとジェノヴァとの連絡線を遮断しようとしていたが、この命令はこれらの優位性を放棄するものだった。
この決定はスヴォーロフ軍の置かれている状況と新たな情報に起因していた。
計画ではカール大公とホッツェ、ハディックがマッセナを包囲し、ベルガルドがグラウビュンデン州とソンドリオ県を掃討し、スヴォーロフはモローとマクドナルを個別に叩くはずだった。
しかしスイスから25,000人の軍がヴァレー州経由でトリノに派遣されたとの噂が各方面に広がっていた。
※実際はスイスからトリノに向かっているザントライユ師団15,000人とフランス本国からスイスに向かっている新たな増援10,000人
そしてスヴォーロフ軍の側面と後方を担当していたハディック将軍麾下のローアン将軍が敗北したという知らせが届けられたことによりフランス軍がスイスから援軍を派遣したという噂が真実味を帯びた。
もしベルガルドの進軍が遅れ、スイスから来るという噂の25,000人のフランスの増援が先にトリノに到着してモローと共同でスヴォーロフ軍を攻撃した場合、ポー河の南の陣地では不利な態勢で戦うことを余儀なくされることとなる。
それに加えてマクドナル将軍率いるナポリ方面軍が途中で拘束されてナポリ領に留まるかもしれないという知らせが届けられており、オーストリア皇帝からもこの情報は信頼できるという連絡を受けていた。
これらの情報はほとんど誤報だったがそれと知らないスヴォーロフは予防措置としてミラノを守れる位置に主力を移動させようとしたのである。
連合軍はトッレ・ガロフォリ(Torre Garofoli)を出発しサーレ(Sale)方面へと北進する準備を開始した。
それに伴って本部をカステルヌォーヴォ・スクリーヴィアに移し、トルトナ要塞の包囲部隊にジェノヴァ方面の道路を制圧するよう命じた。
バグラチオン将軍は旅団とともにノヴィを離れてポー河右岸にあるアッルヴィオーニ・カンビオ村へ、ガヴィのカラチャイ旅団約3,600人はカステル・チェリオーロとマレンゴに進軍するよう命じられた。
トルトナ近郊に到着したゼッケンドルフ旅団やスクリーヴィア川を渡ろうとしているカイム師団もポー河へ向かうよう命じられた。
しかしポー河南岸へ渡河しようとしていたフェルスター師団はカンビオでの渡河を諦め、カンビオから撤収していた。
それにもかかわらずスヴォーロフ元帥はカンビオに橋を架けて5月16日には北岸へ渡ろうとした。
ホッツェ師団の進軍開始
※1799年5月14日のザンクト・ルツィシュタイクの戦いが行われた戦域とスイスの主要都市の位置
※参考「オーバーライン渓谷のグラウビュンデン州の一部およびアールベルク州とチロル州との境界(Partie des Grisons du haut Rheinthal et ses Frontieres au Gouvernement d'Arlberg et Tyrol)1798年」より一部抜粋。ザルガンス周辺地域
5月13日、ブレゲンツ、ドルンビルン、フェルトキルヒに十分な兵力を残してホッツェ師団の第1縦隊が雪山登山用装備を持ってバルザース(Balzers)から出発した。
14日、第2縦隊がバルザースを出発してザンクト・ルツィシュタイク(Sankt Luzisteig)の正面を攻撃し、大砲の射程外に陣取って第3縦隊を待った。
この地域のライン川左岸側とクールからザンクト・ルツィシュタイクまでのライン川右岸側はシャブラン旅団が防衛していた。
この時、第1縦隊は高山を登ってシュタイク川(恐らくフェルトリューイ(Feldrufi)川)を迂回していた。
第1縦隊は2つに分割され、1個大隊はシュタイク川の後方に出てザンクト・ルツィシュタイクを攻撃し、2個大隊はマイエンフェルト、イェニン、マランを占領し、フランス軍を撤退させた。
そして1個歩兵大隊を派遣して税関橋まで撃破し、ラントクワルト(Landquart)川の背後に配備されていた大砲1門を奪取した。
この機動によりザンクト・ルツィシュタイクのフランス軍はラントクワルト川方面に後退したが、一部はフレーシュ(Fläsch)に逃亡した。
ザンクト・ルツィシュタイクの正面に展開していたホッツェ将軍率いる2個縦隊はフレーシュに逃亡したフランス部隊を追撃して大砲3門を奪い、ランクトワルト方面へ騎兵隊を派遣した。
ホッツェ将軍は瞬く間にクールを占領し、シャブラン旅団はライン川左岸側への逃亡を余儀なくされた。
シャブラン将軍はラガッツを通ってザルガンス(Sargans)に撤退し、ザルガンスの村とヴァレンシュタット(Walenstadt)の間に陣取り、右翼をグラップラング城(Burgruine Gräpplang)に、左翼をベルシス(Berschis)の山に守られるように布陣させた。
その後、ホッツェ将軍はガヴァシーニ大佐が指揮する5個大隊と1個中隊をライン川左岸側へ派遣してラガッツを占領し、タミーナ渓谷の入り口に陣取った。
ベルガルド将軍率いるチロル軍のダボス周辺地域の制圧
※1799年5月中旬、ベルガルド将軍率いるチロル軍のダボス攻撃とスーシェ将軍の迅速な撤退
一方、ベルガルド将軍率いるチロル軍はモンタフォン(Montafon)渓谷とエンガディン地方から進軍を開始し北と東側からダボスを攻撃していた。
ダボスはスーシェ将軍が守っていたが、チロル軍の本格的な侵攻に対抗するには圧倒的に兵力が少なすぎた。
スーシェ将軍は圧倒的劣勢だと判断すると迅速に部隊を鼓舞し、タミンス(Tamins)の南に位置するライヒェナウ(Reichenau)の背後に陣取ってライン川に架かる橋を破壊した。
スーシェ将軍の撤退の決断が早かったためほとんど損害を出さずに撤退することに成功した。
その後スーシェ将軍はラガッツへ撤退しようとしたがシャブラン旅団は敗北しており、クールはホッツェ師団によって占領されていた。
もう一方の退路であるイランツ方面は反フランスの住民の存在があったためスーシェ旅団は周囲の部隊との連絡線を遮断されていた。
孤立したスーシェ旅団は、今後、住民からの攻撃を警戒しつつ弾薬や食糧の供給が行われず現地調達のみで険しい山岳地帯を通ってルクルブ師団本体と合流しなければならない状況となった。
圧倒的多数の敵がいるクール方面に撤退することはできなかったためスーシェ将軍に残されたのはライン川を遡りイランツ(Ilanz)への道を通ってロイス川方面へと撤退する選択肢のみだった。
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