シリア戦役 65:アッコ前からの撤退開始と死が間近に迫ったペスト患者へのアヘンの供与
Napoleon began his retreat from Acre
アッコ軍の11度目の出撃
1799年5月17日~19日にかけて、アッコ軍はこれまでよりも激しく砲撃された。
ジェザル・アフマド・パシャの宮殿だけでなく、まだ攻撃を受けていなかった要塞部分、及び都市のすべての建物にも被害が及んだ。
アッコ軍はこれまで経験したことのないほどの猛烈な砲火を見て5月20日の夜明けに11度目となる総出撃を行ったがフランス軍の抵抗により撤退を余儀なくされた。
しかしアッコ軍は諦めたわけでは無かった。
アッコ軍の目的は、激しい砲火を掻い潜って突破し、砲台を破壊することにより都市の崩壊を防ぐことだった。
そのため午後3時、あらゆる地点から再び出撃した。
ロードス島から来た増援部隊を総動員し、これまで見せたことのない激しさと粘り強さで戦った。
アッコ軍は突破塔の斜面上部の塹壕(第3塹壕線)を一時的に占拠することに成功した。
しかし、アッコ軍が塹壕に入るとすぐに塹壕の指揮官だったラグランジュ少将が2個擲弾兵中隊で彼を攻撃し、塹壕を奪還した。
アッコ軍をラベリンまで追撃し、要塞に突入しなかった者を皆殺しにし、塹壕へと追い返した。
砲台では撤収した攻城砲の代わりに野砲が投入され、アッコ軍は精力的な攻撃にもかかわらず、あらゆる地点で撃退され、大きな損失を被って撤退を余儀なくされた。
アッコ前からの撤退開始
※1799年5月20日夜、アッコ前からの撤退開始
アッコの街に水を運んでいた数リーグに及ぶ水道橋は、地雷と掘削によって破壊され、アッコ周辺の食料や農作物は灰燼に帰した。
役に立たない物はすべて海に投げ捨てられ、包囲を解く準備が整えられた。
そして5月20日午後7時、太鼓による大警報が鳴り響いた。
これがフランス軍撤退の合図だった。
夜8時、ランヌ師団がハイファに向けて出発し、その後に司令部、管理部、徒歩の護衛騎兵、砲兵隊と工兵が続いた。
ボン師団は砲兵隊と工兵の後ろを行軍し、クレベール師団がアッコ川の橋を確保しつつ丘の塹壕陣地に陣取り、海までの陣地を維持した。
夜10時、クレベール将軍の合図でアッコ前の塹壕陣地を占領しているレイニエ師団が戦闘態勢をとりつつハイファへの撤退を開始した。
レイニエ師団の兵士たちは野砲を手で担ぎ、前哨部隊はラベリンへと退却した。
塹壕の後方に陣取っていたレイニエ師団は、宿営地へ戻って荷物を回収した後、ボン師団の後を追った。
ミュラ将軍の騎兵隊はアッコ対岸の小川の向こうに集結し、夜8時に到着した。
そしてそこから川沿いにチェルダムの製粉所まで陣地を築いた。
ジュノー将軍はサフォーレからシャファ・アムルまで撤退しており、そしてそこからチェルダムの製粉所に向かった。
ジュノー将軍がチェルダムに向かった目的は、敵が右翼を包囲してフランス軍を海へ追い詰めることを防ぐことだった。
レイニエ師団が塹壕から撤退しアッコ川の橋を渡ったのを確認するとクレベール師団が後衛を務め、レイニエ師団の後を追った。
騎兵隊は、最後の歩兵部隊が出発してから2時間後までアッコ川を離れないよう命令を受けていた。
騎兵隊は、2つの橋の破壊作業員を守るため、100人の竜騎兵を徒歩で残した。
ジェザル・アフマド・パシャは騎兵隊を手元に有しておらず、フランス軍を追撃することはできなかった。
15,000人のトルコ軍が次々とアッコに入り、包囲が解かれた時点でまだ5,000人が残っていた。
そのためトルコ軍の総損害は戦死、負傷、または捕虜を合わせた10,000人に上っていただろうと考えられた。
5月21日午前8時、軍の先鋒(ランヌ師団)はカイサリアに、主力(ボン師団、レイニエ師団)はタントゥーラに、そして後衛(クレベール師団)はハイファに陣取った。
将校用予備馬の負傷兵への供与
5月22日、タントゥーラを出発しようとしていた時、ナポレオンは、当初軍医が徒歩で護送可能と判断していた200人の負傷兵が初日以降は歩行不能であるとの知らせを受けた。
総司令官は直ちに予備の全ての馬を負傷兵たちに供与し、残りの幕僚たちも急いでそれに倣った。
ある負傷した歩兵は、美しい刺繍が施された鞍を汚すことを恐れ、ためらっているようだった。
「行け」と総司令官は彼に告げた。
「勇敢な男には、どんなことでも惜しまない」。
それを見た騎兵将校たちは奮起し、予備馬を全て送り出した。
負傷兵全員が撤退したことを確認した後、ナポレオンはようやく自分の馬に騎乗した。
アブー・ツァブラでの襲撃
※1828年のアブー・ツァブラ周辺地図
22日、フランス軍の主力がタントゥーラを出発しカイサリアに到着した。
ナポレオンは、大理石、花崗岩、斑岩の柱の破片が点在する港で水浴びをしたと言われている。
翌23日、フランス軍がナブルス人の海軍基地であるアブー・ツァブラ(Abu Zaburra)港に陣取った。
するとナブルス人の一部がアブー・ツァブラ(Abu Zaburra)港に現れた。
一部は捕らえられ射殺されたが、残りの者は撤退した。
ナブルス人たちの目的は、フランス軍が行軍中に放棄するぼろ布を奪取することだった。
搬送できないペスト患者へのアヘンの供与
5月24日、ヤッファから4リーグ(16㎞)ほど離れた平凡な小川沿いに陣を敷き、アッコ包囲戦中に護送隊を襲撃した村々に分遣隊を派遣して略奪し焼き討ちした。
そしてサンソン工兵少将にラファの先にあるズウェイド、エル・アリシュの先にあるメソウディアとエル・アブド(El Abd)、そしてヤシ林に井戸を掘るよう命じた。
ラファからカティアまでの砂漠を軍が移動するためには進軍時と同様より多くの水が必要であり、その手配をしたのである。
同日、フランス軍は舟橋で川を渡り、ヤッファで夜を明かした。
翌25日、熱病患者の護送隊を指揮するマグニー(Magny)将軍は27日夕方までにガザに到着するよう命じられヤッファを出発した。
軍は25日~27日の間ヤッファに留まった。
この期間は、不品行な周辺の村々の懲罰、ヤッファの要塞の爆破、ヤッファ市内の鉄製の大砲の破棄、物資と病院の撤退に使用された。
負傷者と病人は海路と陸路の両方で避難した。
ボナパルトは27日に行軍命令を出したが、午前1時、物資と病院の撤退完了を確認するため視察した副官のラヴァレット将軍がまだ11人の病人が入院中であると報告した。
当直の軍医になぜ彼らを避難させないのかと尋ねると、軍医は「これらの患者はペストに罹っており、避難委員会は彼らを輸送不可能と判断し、さらに余命は24時間未満である」と答えた。
しかし、見捨てられることを悟ったこれらの不運な兵士たちは、トルコ軍の残酷な扱いを受けるよりは殺されることを望んでいた。
副官は当直の軍医が必要に応じて使用できるよう彼らの近くにアヘン剤を置く許可を求めたと付け加えた。
主任医師のデジュネットと軍医長のラレーは直ちに呼び出され、ペスト患者の避難は不可能であることを確認した。
軍医にこれらの不運な男性の手の届くところにアヘン剤を置く許可を与えることが適切かどうかという疑問が浮上した。
デジュネットはそれを躊躇した。
「私には、病人を治す薬以外を彼らに与える権限はない」と彼は言った。
他の人々は、これらの不運な兵士たちにアヘンを与えるのは適切だと考えていた。
自分のためにするのと同じことを、他人にもするのを拒むことはできないと。
「我が息子のためにするのと同じことを、兵士たちにも喜んでする」とナポレオンは言った。
「しかし、彼らは24時間以内に自然死する運命にあるため、私だけ今夜に出発し、ミュラは明日(28日)の午後2時まで500頭の馬と共に留まる」と続けた。
ナポレオンは後衛に残っていた軍医に、もし自分が出発するまでに兵士たちが死んでいなければ、彼らの近くにアヘンを置くよう命じ、これはトルコ軍の残虐行為から逃れる唯一の手段だと説明した。
この時イギリスの戦列艦は遥か沖合にあった。
しかし、ヤッファへの部隊の集結が遅れており、陸路での避難を完了させる時間を確保するために軍の出発は28日に延期された。
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