シリア戦役 66:カール大公軍のトゥール川の渡河とホッツェ師団本体のザンクト・ガレン到着【スイス戦線】
Archduke Charles's army crossed the Thur River
カール大公軍前衛師団のトゥール川への到達
※1799年5月21日、カール大公軍のライン川の渡河【スイス戦線】
1799年5月20日、ドナウ方面軍がライン川を離れたことを知ったカール大公はツェラー(Zellar)湖の水がライン川に流れ込むシュタイン(Stein am Rhein)に2つの舟橋の建設を命じ、21日には21個大隊と30個騎兵中隊で構成されるナウエンドルフ師団にライン川左岸側への渡河を命じた。
そしてコンスタンツの騎兵分遣隊にもボーデン湖とツェラー湖を繋ぐライン川を渡河させ、ホッツェ師団との連絡を試みた。
カール大公はシュタインとディーセンホーフェン(Diessenhofen)の橋を修復し、シュタインの舟橋をディーセンホーフェンとシャフハウゼンの間にあるパラディース(Paradies)に輸送し、シュトックアッハから来る残りの部隊とともにライン川を渡河しようとしていた。
そして同時にエーグリザウとヴァルツフートの間に配置していた多数の騎兵で構成される分遣隊にライン川を渡りチューリッヒ湖からアーレ川に流れ込むリマト(Limmat)川とテス川の間に展開するフランス軍左翼を妨害するよう命じた。
ナウエンドルフはシュタインの南約5㎞のところにあるシュタイネック(Steinegg)に到着するとすぐに、右翼をヌスバウメン(Nussbaumen)、左翼をヒュットヴィレン(Huttwilen)に移動させた。
ナウエンドルフ師団の騎兵隊はアンデルフィンゲン(Andelfingen)からプフィン(Pfyn)に至るトゥール渓谷に展開し、斥候兵をフラウエンフェルト(Frauenfeld)まで追い詰めた。
カール大公軍前衛師団によるトゥール川の渡河と前哨線の形成
※1799年5月22日、カール大公軍前衛師団によるトゥール川の渡河と前哨線の形成
5月22日の朝、ナウエンドルフ前衛師団がトゥール川を渡り、ヘットリンゲン(Hettlingen)でフランス軍の最初の前哨基地と遭遇した。
この時、ウディノ将軍はヴィンタートゥールに司令部を置き、師団主力をヘットリンゲンに集結させ、戦列をゾイツァッハ(Seuzach)からネフテンバッハとデットリコン(Dättlikon)を経由してフライエンシュタイン(Freienstein-Teufen)まで伸ばし、予備軍をヴルフリンゲン(Wulflingen)に置いていた。
ナウエンドルフ師団の前衛部隊はヘットリンゲンの前哨基地に猛烈な攻撃を仕掛け、激しい戦闘の末に撤退した。
ナウエンドルフ師団の前衛部隊を構成する5個大隊と16個騎兵中隊がヘンクガルト(Henggart)を占領し、フランス軍戦線に相対するように陣地を築いた。
ナウエンドルフ師団はテス川の合流点からブーフ(Buch am Irchel)、ヒュニコン(Hunikon)、ヘットリンゲン、リッケンバッハ(Rickenbach bei Winterthur)、オーバーヴィル(Oberwil)、フラウエンフェルトを経由してプフィンに至る約35㎞の前哨線を形成した。
夕方、ナウエンドルフ将軍はシュタイネックの陣地を離れ、マルターレン(Marthalen)村とアンデルフィンゲン(Andelfingen)村を隔てる高原に陣取った。
ナウエンドルフ師団の旅団の1つはトゥール橋の背後にあるクライン(Kleinandelfingen)に陣取り、ナウエンドルフ将軍はそこで翌23日にライン川を渡河するカール大公軍の到着を待った。
ホッツェ師団のライン川渡河
※1799年5月22日、ホッツェ師団のライン川渡河
一方、ホッツェ将軍はカール大公軍と合流するために前進していた。
フランス軍のライン川からの撤退後、マイニンゲン(Meiningen)での新たな橋の建設を急いでいた。
5個大隊、6個騎兵中隊をグランビュンデン州に残し、フォアアールベルク州で民兵を徴兵してフェルトキルヒを防衛させ、フェルトキルヒの部隊を前進させようとしていた。
5月22日、ホッツェ将軍は18個大隊、13個騎兵中隊を率いてバルザースとマイニンゲンに架けた橋を渡った。
数日後にはチロル軍に塹壕陣地を明け渡す予定である4個大隊がホッツェ師団本体を追い、最終的に22個大隊となることとなっていた。
その他に5個大隊を擁する最左翼であるガヴァッシーニ旅団はシャブラン旅団を追ってヴァレン湖を越え、リント川の左右にあるグラールスとモリス(Mollis)を占領していた。
ドナウ方面軍左翼への脅威
同22日、エーグリザウに駐屯していたオーストリアの騎兵分遣隊はテス川とグラット川の間に強力な分遣隊を派遣し、ビューラッハ(Bülach)を越えて進軍した。
そしてルフィンゲン(Lufingen)のフランス軍前哨基地を脅かした。
ルフィンゲンに現れたオーストリア軍の規模は不明であり、マッセナはウディノ将軍率いる前衛師団とチューリッヒとの連絡線を遮断しようとする本格的な攻撃である可能性を懸念した。
そのため直ちにタロー将軍を9個騎兵中隊とクローテン(Kloten)に駐屯していた1個旅団ととともに派遣した。
タロー将軍はオーストリアの騎兵隊を撃退したが、ライン川を再び渡った敵に追いつくことはできなかった。
マッセナは自らビューラッハに赴いて状況を把握し、タロー将軍を2個大隊、3個騎兵中隊、軽砲兵中隊とともにチューリッヒの北東約20㎞のところにあるバーデン(Baden)に派遣した。
マッセナはパイヤール将軍率いる第4師団とともにビューラッハに留まった。
マッセナはアーレ川とテス川の間の左側の防衛をタロー将軍に担当させ、自らは右側の防衛を担当したのである。
カイザーシュトゥール及びツルツァッハでの戦闘
フランス軍がアーレ川とテス川の間の兵力を強化したことを知らなかったオーストリア軍は、5月22日の夜中にコブレンツからカイザーシュトゥール(Kaiserstuhl)に至るライン川の左岸側に相当数の戦力を舟で渡河させた。
23日朝、タロー将軍はオーストリア軍を引き込むために陣地を後退させ、午前10時にツルツァッハ(Zurzach)近郊で激しい正面攻撃を開始した。
一方、マッセナはカイザーシュトゥール近郊で舟で渡河してきたオーストリア軍左翼を攻撃した。
戦闘は短時間で終了し、優勢な戦力に圧倒されたオーストリア軍は混乱したまま撤退し、馬300頭と兵士500人がフランス軍に捕らえられた。
オーストリア軍は慌てて舟に戻ろうとしたため多くが溺死した。
ホッツェ師団のザンクト・ガレンからの前進
5月23日、ザンクト・ガレンに到着したホッツェ将軍だったがフランス軍がリント渓谷とリヒテンシュタイクから撤退したことを知らなかったためガヴァッシーニ旅団との連絡線を確立するために前衛部隊をビショフツェル(Bischofzell)を経由するルートでヴィルに派遣した。
この前衛部隊はヴィルに到着後、左(南)に分遣隊を派遣してガヴァッシーニ旅団の消息をつかむこととなっていた。
24日、ガヴァッシーニ旅団との連絡線の確立を優先したホッツェ将軍は師団主力を前進させずにザンクト・ガレンに留まらせ、カール大公軍と合流することを目的としてペトラーシュ(Pétrasch)将軍に6個大隊、6個騎兵中隊を率いてヴィルを経由するルートでプフィンに進軍するよう命じた。
ペトラーシュ将軍は24日中にヴィルに到着し、25日早朝にプフィンに向かって旅立った。
ザントライユ師団によるヴァレー州の反乱鎮圧
※1799年5月下旬、ザントライユ師団によるヴァレー州進軍
ゾロトゥルン(Solothurn)を出発したザントライユ師団は5月12日にはその先頭がローザンヌ(Lausanne)に到着し、23日には約6,000人でヴァレー州に入りシエル(Sierre)に塹壕陣地を築いていた。
5月24日、連合軍の接近を知ったヴァレー州の住民数千人が集結し、プフィンの森(Pfynwald)から現れザントライユ師団の陣地を襲った。
しかし反乱軍はすぐに撃退されたが、ザントライユは慎重を期して部隊を各塹壕陣地に撤退させた。
25日、ザントライユ師団が攻勢を仕掛けた。
ロイクで反乱軍を撃破し、ラーロン(Raron)、ブリーク(Brig)と追撃をしたが反乱軍はラックス(Lax)でオーストリアの2個大隊の増援を受けた。
最終的に反乱軍は敗走し、反乱軍が敗走した後も戦闘を継続していたオーストリア部隊も夜になると戦場から姿を消した。
ザントライユ将軍はシンプロン峠とサン・ベルナール峠を占領し、イタリアへは行かずドナウ方面軍の最右翼としてヴァレー州の防衛を担った。
※サン・ベルナール峠はアオスタ(Aosta)とマルティニー(Martigny)の間にある峠。マルティニーから南東約45㎞ほどのところにマッターホルンがあり、南西約35㎞ほどのところにモンブランがある。
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