シリア戦役 67:フェラーラ要塞及びミラノのスフォルツェスコ城の降伏とマクドナル将軍のトスカーナ到着
General MacDonald arrives in Tuscany

フェラーラへの増援の到着と降伏勧告

フェラーラの地図(1747)

※フェラーラの地図(1747)

 1799年5月中旬、オーストリア本国からの増援は陸と海からフェラーラに向かっていた。

 5月19日、海からの増援部隊はアドリア海を航海してコマッキオで兵士と弾薬を上陸させており、陸からの増援部隊2,000人は大砲12門、迫撃砲7門とともにポンテラゴスクロ(Pontelagoscuro)に到着していた。

 21日、クレナウ将軍は再びフェラーラに降伏勧告を行った。

 その結果、フランス軍は翌22日に古い城塞に1,500人~2,000人の部隊と大砲90門を残して撤退した。

 クレナウ将軍はフェラーラの町を占領し、その際、城塞に立て籠もっているフランス部隊も撤退させようと攻撃した。

 しかしフェラーラ城塞に立て籠もるフランス部隊は正五角形の城塞を完璧に修復し、多くの大砲に守られ、弾薬や食糧も豊富に運び込んでいたため成功しなかった。

 クレナウ将軍は城塞への攻撃を成功させるために2つの砲台を建設し、この日の夜に完成させた。

 23日午前3時、クレナウ将軍は1個大隊をフェラーラの町に駐屯させ、夜明けには砲兵と弾薬を砲台に運び込んだ。

 午前8時にフェラーラ城塞司令官に再度降伏勧告を行ったが拒否された。

 2つの砲台はすでに準備が整っており、クレナウ将軍は城塞への砲撃開始を命じた。

 3時間にわたる砲撃で62人が死亡し、城塞内の2つの弾薬庫で火災が発生した。

 この火災を見たクレナウ将軍は3度目の降伏勧告を行った。

 夜9時頃、城塞司令官は降伏条件の提案とともに休戦旗がクレナウ将軍の元に届けられ、24日午前1時に降伏が合意された。

 これによりクレナウ将軍は1,500人~2,000人の捕虜と多くの大砲、6か月分の食糧を得た。

 その後クレナウ旅団はフェラーラに守備隊を残してオット師団と合流し、オット師団の前衛としてボローニャのモンリシャール師団に対抗するためにボローニャとパナロ(Panaro)川の間に軍を展開させた。

ミラノのスフォルツェスコ城の降伏

ミラノの地図(1799年)

※ミラノの地図(1799年)

 5月23日夜、フェラーラ城塞の降伏が交渉されている頃、ミラノではスフォルツェスコ城の降伏が合意されていた。

 ハトリー将軍率いるスフォルツェスコ城守備隊約2,500人は、24日午前9時に太鼓の音とともに城を出発し、斜堤の上で武器を放棄した。

 守備隊はフランス軍と合流しモロー将軍指揮下に置かれることを許されたが、1年と1日の間はオーストリア軍との戦闘に参加しないことを条件とされていた。

 北イタリアで連合軍が包囲している要塞はマントヴァ要塞のみとなり、ミラノ要塞(スフォルツェスコ城)を包囲していた軍は一部守備隊を残して前線に向かいスヴォーロフ軍と合流することとなる。

 約24,000人の師団を率いるクレイ将軍はマントヴァ要塞の攻囲を継続した。

マクドナル師団のトスカーナ到着と戦力の集結

1799年5月10日~29日までのマクドナル将軍率いるナポリ方面軍の行程

※1799年5月10日~29日までのマクドナル将軍率いるナポリ方面軍の行程

 一方、5月10日にローマを出発したマクドナル将軍は17日にヴィテルボ、20日にボルセーナ、21日にアックアペンデンテ、22日にラディコーファニ、23日にブオンコンヴェント、24日にシエナ、25日にバルベリーノ・ヴァル・デルサに進軍し、26日にフィレンツェに到着した。

 ナポリのサンテルモ砦、カプア、ガエータなどに守備隊を残し、アンコーナ、ペルージャ、ローマ、チヴィタ・ヴェッキアなどの小さな駐屯地で暴動を鎮圧し、殿軍の退路を守る任務を負わせた後も、マクドナル師団は依然として18,000人の兵士と30門の大砲を擁していた。

 そしてフィレンツェでトスカーナを占領しているポール・ルイ・ゴルチエ・ド・ケルヴェギュン師団長率いる部隊と遭遇した。

 マクドナル将軍はトスカーナで戦力を整えることを決意し、トスカーナに散らばった分遣隊に主力軍に合流するよう命じた。

 これらの9,000人~10,000人の分遣隊は集結し次第、モンリシャール将軍の指揮下に置かれることとなった。

 これによりマクドナル将軍は、オリヴィエ、ルスカ、モンリシャールの各師団将軍、およびワトラン、ドンブロフスキ、サルメの各旅団将軍からなる歩兵師団の合計36,728人の野戦軍を率いることとなった。

 そしてモロー将軍へ書簡を送り、ルッカへ旅立った。

 5月29日にルッカに到着したマクドナル将軍だったが、部隊の集結、食糧の準備、要塞への物資の供給などに時間を要したため、その後の10日間、トスカーナに留まることを余儀なくされた。

オット師団の動向

1799年5月下旬~6月上旬頃のマクドナル将軍率いるナポリ方面軍とオット師団の位置関係

※1799年5月下旬~6月上旬頃のマクドナル将軍率いるナポリ方面軍とオット師団の位置関係

 ピアチェンツァを出発したオット師団約6,000人はパルマを占領し、ホーエンツォレルン旅団をモデナに派遣していた。

 オット将軍は主力をトレッビア川とターロ川の間に展開させ、分遣隊をアペニン山脈のターロ(Taro)渓谷へ派遣し、ポントレモリ(Pontremoli)へ向かわせた。

 マクドナル将軍率いるナポリ方面軍とスヴォーロフ軍の片翼であるオット師団は徐々に接近しつつあった。

 しかしマクドナル将軍率いる軍約37,000人に対し、オット師団(オット師団6,000人、ホーエンツォレルン旅団4,800人)とクレナウ旅団(正規兵5,800人、武装農民4,000人)の合計は約20,000人だった。