シリア戦役 68:フラウエンフェルトの戦い【スイス戦線】
Battle of Frauenfeld
フラウエンフェルトの戦いでのマッセナの計画
※1799年5月25日、フラウエンフェルトの戦いでのマッセナの計画
1799年5月24日、マッセナはザンクト・ガレンのホッツェ師団が動き始めたとの報告を受けた。
恐らくカール大公軍との合流が目的だろうと考えられた。
この時マッセナはスパイから「大公はパラディースからまだ動いていない」との報告を受けていた。
これらオーストリア軍の合流を防ぐためにはカール大公軍本体が動き出す前にその前衛であるナウエンドルフ師団とホッツェ師団をトゥール川の背後に押し戻す必要があった。
ホッツェはすでに動き出しており、一刻の猶予もないと考えられた。
マッセナはビューラッハに駐屯しているパイヤール将軍率いる第4師団にアンデルフィンゲンへ進軍するよう命じ、タロー将軍に1個半旅団と3個騎兵中隊で編成したウドゥレ(Heudelet)旅団をパイヤール師団の支援に派遣するよう命じた。
前日(5月23日)にウディノ将軍が指揮を代行している前衛師団の元に到着したネイ将軍は前衛師団の半数を率いてアルティコン(Altikon)方面のオーストリア軍前哨線中央を突破しプフィンへ進軍するよう命じられた。
前衛師団の残りの半分を指揮するウディノ将軍はフラウエンフェルトの占領を命じられた。
スールト師団はネイ将軍とウディノ将軍が指揮する前衛師団の予備軍としてマッセナの近くに駐屯することになっていた。
同時にシャブラン将軍率いる第2師団はホッツェ師団の左翼であるガヴァッシーニ旅団を脅かしてヴィルへの軍勢の進軍を阻止するため、リント川とリヒテンシュタイク方面に強力な分遣隊を進軍させるよう命じられた。
パイヤール将軍率いる第4師団のアンデルフィンゲンの占領
5月25日、夜明けとともにパイヤール将軍はビューラッハを出発し、ロールバスの舟橋でテス川を渡った。
そしてオーストリア軍の前哨基地をテス川右岸に残したままイルヒェル(Irchel)山を迂回して進軍した。
オーストリア軍の最初の斥候部隊とはドルフ(Dorf)で遭遇したのみだった。
パイヤール将軍はヒュニコンとヘットリンゲン付近に軽歩兵隊を配置することで主力の進路を隠蔽しようとした。
パイヤール将軍の目的はナウエンドルフ師団右翼前面に軽歩兵隊を配置することでナウエンドルフ将軍の注意を前面に向けさせ、主力でナウエンドルフ師団の唯一の退路となるアンデルフィンゲンを占領することだった。
しかし、ナウエンドルフ将軍の元にフランス軍がアンデルフィンゲンに向かっているという情報がもたらされた。
ナウエンドルフ将軍は秩序正しく集結し、アンデルフィンゲンを見下ろす丘へ後退した。
2個分遣隊がトゥール川右岸の橋の先端と下流に建てられた最後の家屋を占拠し、残りの分遣隊は隊列を整えて攻撃を待ち構えた。
丘の麓に到達したパイヤール将軍は前衛部隊にナウエンドルフ師団が占領し損ねていた上流の橋へ進撃するよう命じ、残りの部隊で正面攻撃を開始した。
前衛部隊にトゥール川を渡河させてアンデルフィンゲンを守るオーストリア軍の後方を脅かそうとしたのである。
オーストリア軍は正面からの猛攻に耐えたが、すぐに左翼後方からパイヤール将軍が派遣した前衛部隊の砲火の音が聞こえてきた。
そのためナウエンドルフ将軍はアンデルフィンゲンに架かる橋への退路が遮断されるのではないかと危惧した。
トゥール川左岸のオーストリアの歩兵は密集縦隊を組んでアンデルフィンゲンの町へ急ぎ、トゥール川に通じる長い街路を下った。
後方にいたオーストリアの騎兵隊はフランス軍の追撃を阻止しようと出撃した。
これによりフランス軍の追撃は阻止されたが、アンデルフィンゲンの町の川岸の斜面の頂上を占領したフランス軍の軽砲兵隊が敗走するオーストリア兵たちに壊滅的な打撃を与えた。
オーストリア兵たちがようやく橋に辿り着いたその時、フランスの騎兵隊に追われたオーストリア騎兵隊が足止めされることを恐れて橋へと駆け上がった。
オーストリア騎兵隊は敗走する歩兵隊を踏みつけて橋を渡ろうとしたため隊列に混乱と恐怖をもたらした。
両軍の騎兵隊が橋への進路を塞ぎ、フランスの歩兵隊が塹壕で守られた家々に猛烈な攻撃を行っていた。
この瞬間、右岸の橋頭保に陣取っていた分遣隊の指揮官が突撃を命じ、激しい継続的な射撃によってオーストリア軍先頭部隊の退路を確保することに成功した。
オーストリアの歩兵隊が橋を渡って撤退する際、歩兵隊は町に火を放ち、橋を焼き払って行った。
左岸以残されたオーストリア歩兵約800人は武器を放棄して投降を余儀なくされたが、騎兵隊はテス川下流に到達して泳いで渡河し、逃亡を成功させた。
ウディノ師団前衛によるフライエンフェルトの占領と喪失
※1799年5月25日、ウディノ師団前衛とホッツェ師団前衛の接触
午前3時頃、ヴィンタートゥールを出発したウディノ将軍率いる前衛師団の半分はフライエンフェルトへの道に沿って縦隊を組んで行軍していた。
午前5時頃、ウディノ師団前衛のガザン(Gazan)旅団はフラウエンフェルトの前でオーストリアの守備隊を敗走させ、銃剣で街を占領した。
この守備隊はゆっくりと木々を越えてプフィンへ撤退した。
そしてザンクト・ガレンに繋がる街道に1個大隊と騎兵100騎で構成される監視部隊を配置し、コンスタンツへと繋がる街道へ移動した。
ネイ将軍指揮下の左翼旅団がプフィンの橋を占領していたまさにその時、プフィンへ向かうためにヴィルから出発していたホッツェ師団の前衛であるペトラーシュ(Petrasch)師団はムルグ川右岸に沿った街道を進軍していた。
この師団はマッツィンゲン(Matzingen)付近でガザン将軍が配置した監視部隊と遭遇し、これを容易に敗走させた。
ガザン将軍は監視部隊の敗北を知るとすぐにフラウエンフェルトで防衛態勢を整えようとした。
ペトラーシュ将軍は前進を急ぎ、ガザン旅団が防御態勢を整える前にフラウエンフェルトに到着し、町を強力に占領した。
フラウエンフェルトの町はムルグ川の右岸、トゥール川との合流点付近にあり、右手には町を見下ろせる緩やかな丘陵が広がっていた。
ムルグ川からプフィンへは森やブドウ畑が広がっており、ムルグ川は深く急峻であるため渡河困難だと考えられ、その背後で町を防衛することで有利な防御力を得ることができた。
そして右手の丘陵に3個大隊を配置した。
1個大隊は川の湾曲部に配置して左翼を守り、残りの2個大隊は6個騎兵中隊とともに予備軍として残した。
フラウエンフェルトを失ったガザン旅団はウディノ師団本体と合流した。
ネイ師団によるプフィンの占領
ネイはパイヤール将軍に劣らず機敏かつ巧みに行動し、ヴィンタートゥール近郊からアルティコン方向へ猛烈な速さで進軍し、アルティコンの南西約2㎞のところにあるエシュリコン(Eschlikon)のナウエンドルフ師団の前哨部隊を奇襲した。
騎兵のみで構成されていたエシュリコンの前哨部隊は、アルティコンとアンデルフィンゲンの間に位置するグーティヒハウゼン(Gutighausen)でトゥール川の浅瀬に到達して右岸へ渡ったが、その際に相当数の兵馬が溺死した。
まだトゥール川を渡っていない前哨部隊は、仲間の死を目の当たりにすると左岸沿いにアンデルフィンゲン方面に逃走した。
そしてロジェ(Roget)旅団の分遣隊に追撃され、アンデルフィンゲンのパイヤール将軍率いる部隊に追い詰められ、部隊全員が捕らえられそうになった。
リッケンバッハで奇襲を受けた歩兵と騎兵はプフィンへの退却を急いでいたが、ネイ将軍率いる前衛部隊の猛烈な追撃を受けたため橋での防衛準備を整えることができず、ヘルダーン(Herdern)方面へ敗走した。
その際、フランス軍は400人の捕虜を捕らえた。
ネイはプフィンの橋を強固に占領し、プフィンの前面に陣地を築き、ウディノ将軍からの作戦の知らせを待った。
午後3時頃、プフィン陥落の知らせを受け、フランス軍がアンデルフィンゲンの橋の再建準備を進めていないことを知ったナウエンドルフ将軍は、ジンプシェン(Simbschen)旅団をトゥール川上流に派遣した。
この旅団の目的は夜襲を仕掛けてプフィンを奪還することだった。
フラウエンフェルトの戦い
※1799年5月25日、フラウエンフェルトの戦い
ガザン将軍から報告を受けたウディノ将軍はフラウエンフェルトのオーストリア軍を撃退するため師団とともにに前進した。
ウディノ将軍はフラウエンフェルトの前に到着するとムルグ川の岸に沿って大砲を展開した。
オーストリア軍の砲兵隊は位置的に優位であったにもかかわらず、激しい砲撃に圧倒され、オーストリア軍は町の後方への撤退を余儀なくされた。
ガザン将軍が指揮するフランスの軽歩兵隊が町に侵入し、激しい銃撃戦の末にオーストリアの散兵を追い払い、周囲のブドウ畑まで追撃し、川の湾曲部に陣取っていた大隊へ向けて進軍した。
ガザン将軍は同時にルツェルン地方(Lucernoise)で徴兵された民兵大隊に支援を命じていた。
しかし、民兵大隊の支援を受けて攻撃をしたものの撃退された。
フランス軍不利と見た民兵大隊は武装解除して投降しようとオーストリア軍に向かって移動を開始した。
これによりガザン旅団は優位を失い危機的状況に陥いろうとしていた。
しかしこの赤いジャケットを着た民兵が向かって来ているのを見たペトラーシュ将軍は攻撃のための前進と考え砲兵隊に砲撃を命じた。
砲撃を受けた民兵たちは投降を断念し、オーストリア軍と戦うことを決意した。
民兵たちは損害を出しながら銃剣を拾い、銃剣と銃床で必死に身を守り、兵力の約半分を失ったにもかかわらず、オーストリア軍を撃退した。
しかしペトラーシュ将軍が予備軍の一部で中央を支援していたため、ガザン旅団は町の維持に苦戦した。
そこへ1個半旅団、2個騎兵中隊を率いてスールト将軍が到着し新たな攻撃を開始した。
これにより戦況は一変した。
ペトラーシュ将軍はこの新たな攻撃を撃退しようと最後の予備軍を投入し、騎兵隊に庭園ブドウ畑での徒歩戦闘を命じた。
ペトラーシュ師団は日暮れまで激しく戦った。
しかし午後7時頃、マッツィンゲンを経由してヴィル方面への撤退を余儀なくされ、フラウエンフェルトの戦場では2,000人以上が死傷し、1,800人が捕虜となった。
そしてすぐにフランス軍によって追撃された。
この撤退中、2人の将軍が負傷し、その内の1人は致命傷を受けた。
そして森の中に散り散りになっていた計1,200人の兵士が軍旗1旈と大砲2門とともにフランス軍の手に落ちた。
ペトラーシュ将軍は大きな損害を被りながら徒歩でヴィルに辿り着き、この地を守り抜いた。
ヨハン・ウェーヴァー将軍の奮闘と死の逸話
※1799年5月25日、ウェーヴァー将軍の死。Johann Georg Heinzmann 著「Kleine Schweizer Chronik,第2巻(1801)」より抜粋
この時の戦闘で前哨部隊を指揮するヨハン・ウェーヴァー(Johann Wever)将軍はペトラーシュ師団の最初の攻撃を受け止めたが増援が来なかったため撤退を余儀なくされた。
その後5月25日朝9時~10時の間に新たな攻撃のため部隊を集結させている時、ウェーヴァー将軍は単独でオーストリア軍が来た方角へ馬で向かい、その数と位置を窺おうとした。
しかしオーストリア狙撃兵の銃弾を右耳の後ろに受けて、部下たちにより30分かけてフラウエンフェルトの街に運ばれた。
フラウエンフェルトの街に運ぶとき、ウェーヴァーは頭部の傷口から大量の血を流していた。
野戦医がいなかったため傷口を水で洗うことしかできず、包帯が巻かれることは無かった。
部下たちが市役所に連れて行こうとしたが、ウェーヴァーはそれを拒否し市長のところに向かうよう手で合図した。
道中、彼は一度、死の戦慄に襲われた人のように、明るく鋭い悲鳴を上げ、手足を痙攣させた。
市長の邸宅に到着すると部下たちはウェーヴァーを下の部屋のベッドに寝かせた。
その後、ウェーヴァーは外科的な処置を施されること無く、死の間際まで苦悩と恐怖で何度もベッドから起き上がっては再び床に倒れ込み、午後3時に死亡した。
簡素な棺が急造され、その晩、オーストリア軍(ホッツェ師団主力)が進軍してきたため何の儀式も行わずにカトリック教会の墓地に静かに埋葬された。
フラウエンフェルトの戦いにおける両軍の推定兵力
Johann Georg Heinzmann 著「Kleine Schweizer Chronik,第2巻(1801)には、フランス軍及びスイス軍の兵力14,000人と記載されている。
しかしフランス軍前衛師団の兵力は6,415人、スイス軍の兵力は約4,800人(ヘルヴェティア軍団が約1,800人、精鋭軍団が約3,000人)である。
それに加えてフランス軍前衛師団の半数はネイ将軍が率いているため14,000人というのは数が合わない。
恐らく14,000人というのは、アンデルフィンゲンに向かったパイヤール師団、アルティコンに向かったネイ師団、そしてフラウエンフェルトに向かったウディノ師団のスイス軍も含めた合計か、もしくはタロー師団(パイヤール将軍はタロー将軍の指揮下にあった)約7,700人とフランス軍前衛師団(約6,400人)に所属しているフランス兵の合計だろう。
オーストリア軍の兵力も22,000人と記載されているが、それは恐らくホッツェ師団の野戦軍(ガヴァッシーニ旅団含まず)全体の兵力(22個大隊、13個騎兵中隊)であってペトラーシュ師団の兵力ではない。
ペトラーシュ師団の兵力は6個大隊、6個騎兵中隊であり、歩兵大隊と騎兵中隊が満員の状態であれば歩兵6,000人、騎兵1,500人、合計7,500人となる。
そのためフラウエンフェルトではウディノ師団(フランス軍約3,200人、ヘルヴェティア軍団約1,800人、精鋭軍団約3,000人)約8,000人とペトラーシュ師団6,000人~7,500人の戦いだったのだろうと推測できる。
ペトラーシュ師団の最低人数は満員の人数の8割として計算している。
シャブラン将軍率いる第2師団のリント渓谷とリヒテンシュタイク方面への攻勢
一方、ホッツェ師団左翼であるガヴァッシーニ旅団とホッツェ本体との連絡線を遮断するためにリント渓谷とリヒテンシュタイクに部隊を派遣したシャブラン将軍は、ネイ将軍とウディノ将軍が戦っている間、ニーダーウルネン(Niederurnen)近郊のビルテンからグラールスへ向かう道でガヴァッシーニ旅団と激しい戦闘を繰り広げていた。
戦いの結果、ガヴァッシーニ旅団は敗北して撤退を余儀なくされ、シャブラン将軍はネーフェルス(Nafels)まで進軍した。
リント渓谷でオーストリア軍を撃退し目的を果たしたシャブラン将軍は日没と同時にジーブネン(Siebnen)へ撤退した。
リヒテンシュタイク方面に向かったシャブランの第2旅団はリヒテンシュタイクへ繋がる道でオーストリア軍を発見したが捕捉することはできなかった。
ネイ師団のプフィンの喪失とフラウエンフェルトの戦いの終わり
ペトラーシュ師団がフラウエンフェルトとヴィルの間で撤退戦を繰り広げている頃、ナウエンドルフ将軍がプフィンへ派遣したジンプシェン旅団はプフィンからの敗残兵をヘルダーンで集結させて再編成を行っていた。
そして午後9時頃、ジンプシェン将軍は前衛部隊を派遣してネイ将軍に夜襲攻撃を仕掛けてプフィンを占領した。
そしてすぐにナウエンドルフ師団の支援を受け、フランス軍をプフィン橋の向こう側まで追い返すことに成功した。
かくしてパイヤール師団とネイ師団はオーストリア軍をトゥール川の背後に追いやり、ウディノ師団はヴィルにまでオーストリア軍を撃退した。
パイヤール師団、ネイ師団、ウディノ師団の戦いの結果、オーストリア軍の損害は戦死者2,000人、捕虜3,000人以上であり、フランス軍の損害は合計600人を超えなかったと言われている。
※損害の報告はフランス軍側のものであるため、オーストリア軍側のものは過大評価されている可能性がある。
クラウゼヴィッツによるフラウエンフェルトの戦いでの指摘の考察
クラウゼヴィッツはマッセナはホッツェ師団を叩くために全軍を当てるべきだったと主張している。
つまり各個撃破すべきだったということである。
しかし、状況としては5月25日午前の時点でフラウエンフェルトはペトラーシュ師団に奪われ、25日夜~26日未明にホッツェ師団本体の先頭がフラウエンフェルトに到着している。
つまりホッツェ師団の主力を叩く場合、26日も戦いを続行するべきだったということになる。
もし26日も戦力を集中して戦いを続行した場合、パイヤール師団はナウエンドルフ師団に対抗するためにアンデルフィンゲンに拘束され、ネイ師団はナウエンドルフ師団の一部とロイス師団に対抗するためにプフィンの対岸に拘束されるだろう。
するとウディノ師団約8,000人(スイス軍含む)とスールト師団で約6,800人、フラウエンフェルトの戦いでの損害を含めると合計約14,000人でホッツェ師団約17,000人と戦うこととなる。
つまり数的劣勢な状況での戦いとなる。
態勢の悪いホッツェ師団が不利である可能性はあるが、この戦力状況が正しいとすれば「プフィン橋を失ったため当初の戦略通り後退してテス川で防衛線を構築すべき」とのマッセナの判断はあながち間違いとも言えないだろう。
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