シリア戦役 69:スヴォーロフ元帥によるトリノ包囲戦(1799)【イタリア戦線】
Siege of Turin(1799)
※「アレクサンドル・スヴォーロフ伯爵の肖像」ヨーゼフ・クロツィンガー(Joseph Kreutzinger)画。1799年。この絵は1799年のイタリア戦役中のスヴォーロフ元帥を描いたものである。絵の左下には包囲されている街が描かれている。
トリノの包囲
1799年5月25日午後、シャトリエ将軍率いる前衛部隊がトリノの前に到着し、降伏勧告を行った。
約3,400人の兵力でトリノを守るフィオレラ将軍は「最後まで自衛する」と返答した。
シャトリエ将軍はトリノ郊外への砲撃を命じ、フランス軍も応じた。
スヴォーロフはトリノに接近してくる部隊に都市を四方から包囲するよう命じた。
計画では、翌26日中に砲台を設置して夕方までに武装し、27日午前1時に砲撃を開始して午前3時までに降伏しない場合は強襲することになっていた。
スヴォーロフとトリノの噴水の逸話
※トリノの地図(1799年)
この命令を下した後、スヴォーロフは郊外に近づき、噴水の前で立ち止まり、イタリアの夜景と木々の奇抜な輪郭に感嘆し、南方の壮麗な景色を讃えた。
スヴォーロフが他国の景色を優雅に見ている時、フランス軍の砲撃が開始されスヴォーロフの近くに砲弾が降り始めた。
側近たちがスヴォーロフに避難するよう言ったがスヴォーロフはその場に留まろうとした。
デニソフはすぐに避難するよう説得する側近たちに加わり、元帥を横向きに掴んで逃げ出した。
困惑したスヴォーロフはデニソフの髪を掴み、「畜生」と呼び、憤慨して何をしているのかを尋ねた。
デニソフはスヴォーロフを塹壕に降ろした。
スヴォーロフはそれでも噴水に行くことを要求したため、デニソフはその要求に応えるように見せかけて砲弾から離れ、より安全な場所に連れて行った。
スヴォーロフは不満を言い要求を覆さなかったが、仕方なくその夜をそこで過ごしたと言われている。
※この時、スヴォーロフが行きたかった「噴水」だが、どこにあった噴水なのかの記述がない。現在トリノには、ネレイドとトリトンの噴水(Fontana di Nereide e i Tritoni):1767年製作、トーレット(Torèt):1862年製作、12ヶ月の噴水(Fontana dei 12 mesi):1898年製作、アンジェリカの噴水(Fontana Angelica):1930年製作、の4つの噴水がある。これらの中で1799年当時にあった噴水はトリノ王立庭園(Giardini Reali di Torino)にあるネレイドとトリトンの噴水のみである。スヴォーロフ率いるメラス師団がトリノの北側から進軍して来たこと、そして年代から「ネレイドとトリトンの噴水」であると推測される。
この日、ロシア皇帝パーヴェル1世は2月に伯爵になったばかりの外務院議長ロストプチン(Ростопчинымъ)に「ウィーン宮廷がイタリアにおいて何らかの領有権を主張する意思と意図を持つ場合に備えて、同宮廷への宣言文を準備せよ」と口頭で命令した。
パーヴェル1世はトリノ占領後にサルディーニャ国王が失ったピエモンテの支配権を回復させることを考えており、ウィーン宮廷がイタリアにおける領有権拡大を主張することを警戒していた。
そのためそれを牽制しようとしたのである。
フィオレラ将軍の降伏拒否と連合軍の砲撃準備
※「パスカル・アントワーヌ・フィオレラ(Pascal Antoine Fiorella)」。作者不明。19世紀。フィオレラ将軍はナポレオンと同じくコルシカ島アジャクシオに生まれており、ナポレオンより17歳年上である。従兄弟という噂もある。
5月26日の夜明け、オーストリア軍連隊の一つがストゥーラ川(Stura di Lanzo)を渡ってバロン(Balon)郊外を占領し、メラス師団の残りの部隊はそれぞれの配置へと移動した。
ローゼンベルク師団の前衛であるヴィカソヴィッチ旅団は標高284mのカプチーニ山(Monte dei Cappuccini)を占領し砲撃準備を開始した。
スヴォーロフはトリノを守るフィオレラ将軍に降伏勧告を行ったが、フィオレラ将軍は降伏を拒否し「攻撃すれば反撃する」と返答した。
フィオレラ将軍としては約3,400人では堡塁などの防御施設に囲まれてはいても広いトリノの街を防衛することはできないため、街の南西にある城塞への撤退を考えていただろう。
そしてそれはモローの支援にもなる。
恐らくフィオレラが降伏を拒否したのは城塞への撤退とモローへの支援のためのの時間稼ぎだと考えられる。
降伏勧告を拒否されたスヴォーロフは先に出した命令に追加して、塹壕を掘り、砲台を設置し、その後2日間かけて市街地を砲撃し、その間に攻撃の準備を整えるよう命じた。
連合軍によるトリノの街の占領
カプチーニ山のヴィカソヴィッチ将軍は砲撃準備が整うとトリノの街への砲撃を開始した。
街には火の手が上がり、フィオレラは街を放棄して城塞に立て籠もることを決断した。
26日正午頃、フランス軍が城塞に後退しようとしていることに気付くと、トリノ市民とトリノの衛兵は街の門を開け放った。
連合軍は街に侵入し、その後周辺地域を制圧し、一部の兵力をトリノ西のアルプス山脈の麓にあるスーザ(Susa)とピネローロ(Pinerolo)方面、カルマニョーラ(Carmagnola)方面へ向かわせ、これらの町への道を監視させた。
この時、フランス軍は城塞への後退の最中であり、連合軍の突然の入城に騒然とした。
多くのフランス兵は城塞へ逃げ込む暇もなく、街の家々に身を隠した。
フィオレラは城塞から出撃して街に取り残されたフランス兵と物資を救出しようと試みたが無駄に終わった。
この時の戦闘でのフランス軍の損害は戦死者約100人、負傷者と病人約300人、捕虜約200人、大砲400門、マスケット銃20,000挺、あらゆる種類の軍需品だったと言われている。
※ジョミニによるとスヴォーロフは大砲261門、迫撃砲80門、マスケット銃60,000挺、大量の弾薬を手に入れたとのことである。
スヴォーロフ元帥のトリノ入城
26日午後3時、スヴォーロフは軍を率いてトリノに入城した。
通りは人で溢れ、フランツ皇帝とパーヴェル皇帝への敬礼の叫び声が至る所で響き渡り、歓迎の歓声はミラノよりもさらに大きかった。
コンスタンティン大公もオーストリア騎兵連隊の1個中隊を率いて連隊将校たちとともに市内に入城したが、一目で認識され、盛大な拍手喝采を浴びた。
そして26日夜、トリノの街が光で照らされた。
スヴォーロフは邸宅の1階に宿舎を構え、コンスタンティン大公には豪華な宮殿が与えられた。
しかし、コンスタンティン大公は宮殿には泊まらず、街の外にあるオーストリア軍の宿舎で夜を明かした。
スヴォーロフの宿舎方向への攻撃
26日夜、フィオレラはスヴォーロフの元に使者を派遣し、連合軍が撤退するまで市内へ砲撃を続けると告げた。
この使者の目的はスヴォーロフの宿舎の位置を突き止め、その方向に砲撃を行うことなのではないかと考えられた。
そのためこの使者は目隠しをされ、街を馬で駆け抜けてスヴォーロフの元に連れて行かれた。
26日夜~27日未明にかけて、フィオレラは告知通りにトリノの街へ砲撃を行った。
スヴォーロフはこのトリノの街への砲撃を「夜明けまで絶え間ない砲撃、爆弾の雨あられ、ぶどう弾、そして赤く熱した砲弾(赤玉焼夷弾)で勝利を祝いました。市内では住民2人が死亡し、屋根瓦はひどく損傷しました。」とウィーン宮廷に報告した。
しかし市内での火災だけに留まらずスヴォーロフの宿舎の庭で数頭の馬が死亡し、人的被害が出るとスヴォーロフの側近たちは身の危険を感じた。
どうやらフランスの使者は様々な対策がされていたにもかかわらずスヴォーロフの宿舎の方角を突き止めたようだった。
コサックの長であるデニソフがスヴォーロフの寝室に入るとスヴォーロフは目を覚ましたか寝たふりをしながら「どうしたんだ、カルポヴィチ」と尋ねた。
デニソフは「城塞から砲撃があり、この邸宅を狙っています」と報告した。
「放っておいてくれ、眠りたい」とスヴォーロフは壁の方を向いて答えた。
デニソフは立ち去ったが、すぐにスヴォーロフの当直の将軍に連絡を求める声が聞こえた。
トリノ城塞との休戦
トリノの市民は不安と恐怖に支配されていた。
スヴォーロフは街の占領に協力してくれた市民を安心させるためにフランスの司令官に再度書簡を送るよう命じた。
その書簡の内容は「トリノ占領中に数人のフランス兵が命を落としたとしても、それは市民ではなくフィオレラの責任だ、300~400人の兵士ではこれほど大きな街を大軍から守ることはできなかっただろう。そしてもし街への砲撃が再び行われた場合、捕虜となったフランス兵は病人も含めて城塞の広場に連れ出され、罪のない市民への射撃が続く限り(城塞は)砲火を浴び続けるだろう」というものだった。
この警告は効果があり、フィオレラは「連合軍が街側からの攻撃を行わないと誓うなら、街への砲撃は行わない」と宣言した。
スヴォーロフはこれに同意し、休戦が成立した。
スヴォーロフはフランス司令官の寛大で人道的な配慮に深く感謝するという声明を発表し、トリノ市民に対して通常の生活に戻るよう呼びかけた。
アレクサンドリアの街とフェラーラ要塞、ミラノ要塞降伏の知らせの到着
この日、アレクサンドリアを包囲していたシュヴァイコフスキー将軍からアレクサンドリアの街が降伏したとの報告が届けられた。
3,000人の守備隊を率いていたガルダンヌ将軍はアレクサンドリアの街を明け渡し、城塞へと撤退したとのことだった。
ガルダンヌ将軍が合意した降伏条件は「連合軍が市側から城塞に対していかなる行動も起こさないこと、そして市に残されたフランス軍負傷兵は回復次第、解放され祖国へ帰還する権利が与えられること」だった。
スヴォーロフはこの降伏条件を見てシュヴァイコフスキー中将に不満を示したが、最終的にこの降伏条件を受け入れざるを得ないと諦めた。
そしてスヴォーロフの元にフェラーラ要塞とミラノのスフォルツェスコ城が降伏したという知らせも届けられ、これらすべての成功を記念して、翌28日に祝賀行事を行うことが決定された。
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