シリア戦役 70:モンドヴィ及びチェバの奪還と連合軍内の不和【イタリア戦線】
Recapture of Mondovi and Ceva

モンドヴィの奪還

1799年5月下旬、モロー将軍によるモンドヴィ奪還作戦

※1799年5月下旬、モロー将軍によるモンドヴィ奪還作戦

 1799年5月下旬、スヴォーロフ元帥がトリノに向かって前進し包囲戦を行っている間、モロー将軍はサヴィリアーノでモンドヴィ攻略に向かったガロー将軍の報告を待っていた。

 しかしガロー将軍が占領したモンドヴィを放棄してクーネオに撤退したことを知ったモロー将軍はクーネオに本部を移し、グルーシー将軍にガロー旅団を加えた8個大隊でモンドヴィに前進しジェノヴァへの道を切り開くよう命じた。

 ガロー将軍はグルーシー師団の前衛1,300人を率いてモンドヴィに向かい、これを占領した。

 モンドヴィの反乱軍はチェバ要塞に撤退して行った。

 モンドヴィでの戦闘におけるフランス軍の損害は死傷者330人だったと言われている。

チェバの町の奪還

「1796年4月16日、チェバ要塞の眺め(Vue du fort de Ceva le 16 avril 1796)」。ピエトロ・ジュゼッペ・バゲッティ(Pietro Giuseppe Bagetti)画。1801~1806

※「1796年4月16日、チェバ要塞の眺め(Vue du fort de Ceva le 16 avril 1796)」。ピエトロ・ジュゼッペ・バゲッティ(Pietro Giuseppe Bagetti)画。1801~1806

チェバ要塞の平面図(1796年)

※チェバ要塞の平面図(1796年)

 ガロー旅団の勝利を知ったグルーシー将軍は4個大隊を率いてチェバに向かった。

 しかし、途中、コルサリア川を渡ったところにあるレゼーニョ(Lesegno)で武装農民8,000人と遭遇した。

 武装農民の装備は貧弱なものであったため、グルーシー将軍はこれを追い払い、チェバに向かって前進した。

 しかし、チェバの町の北にある山の頂上にあるチェバ要塞は堅固であり、反乱軍は要塞に立て籠もって抵抗していた。

 グルーシー将軍は負傷から回復し復帰したばかりのケネル将軍に2,700人を与えてチェバ要塞を封鎖し、自身は山岳地帯の反乱鎮圧に向かった。

 そして5月28日までにチェバ周辺の山岳地帯の反乱は鎮圧することに成功し、その後、フランス軍はアペニン山脈に展開した。

ウィーン宮廷によるピエモンテにおけるスヴォーロフの命令の強制撤回

 トリノの街の占領後、スヴォーロフ元帥はサルデーニャ国王の治世中に存在していた官職、階級、称号、勲章などを復活させ、新政権の導入に関するあらゆる手続きを特別臨時最高評議会に委ねた。

 その評議会において国王の側近であるサン=タンドレがトリノ知事に任命され、ピエモンテの政治、行政、軍事に関する統治はラトゥール将軍に委ねられることが決定された。

 しかしスヴォーロフの命令は長続きしなかった。

 オーストリア政府から連合軍がサルデーニャ王国に侵攻した際に最初に取るべき措置に関する指示がすぐに届いたため、スヴォーロフは命令のほとんどをウィーンに届く前に自ら撤回せざるを得なかったのである。

 ウィーン宮廷はスヴォーロフの措置に大いに不満を示し、オーストリア皇帝は総司令官に新たな勅令を送る必要があると判断した。

 勅令は、連合軍が征服権によって占領した領土においてはオーストリア皇帝以外のいかなる権威も認められないこと、したがって民政および政治に関するすべての事項はウィーン内閣の命令に委ねられるべきこと、そしてピエモンテの兵士はサルデーニャ国王の旗の下に召集されるのではなく、 オーストリア皇帝の軍として召集されるべきであること、長期にわたる戦争においては敵から奪取した外国領土によって兵士の損失を補う必要があることを明らかにした。

 そしてウィーン宮廷はスヴォーロフにマントヴァ要塞とミラノ要塞の占領に専念し、包囲部隊を強化することを命じた。

 これらの命令はスヴォーロフにとって考えられないことだった。

 旧ピエモンテ軍の将兵はオーストリア軍の増援としてのみ受け入れられることになるため義勇兵の数は大幅に減少すると予想され、特に連合軍の相当部分を要塞のために残さなければならないという要求に心を痛めた。

 そして「マントヴァがどれほど貴重であろうとも、作戦の最良の時期を失うのはもったいない」と言い、こう叫んだ。

「キリストの名において、私を邪魔しないでくれ」

スヴォーロフとトゥーグトの不和

「Johann Amadeus Franz von Thugut」。作者不明。1853年以前の作。

※「Johann Amadeus Franz von Thugut」。作者不明。1853年以前の作。

 外務大臣であり帝国戦争評議会議長となったトゥーグト(Thugut)男爵はウィーン宮廷に従おうとする意志を全く示さないロシアの司令官に、不満を抱いていた。

 このロシアの司令官を自分の意に添うように動かすために軍の最高位を占める側近たちを通して行動した。

 陰謀、噂話、告発、スヴォーロフへの反対、あるいは少なくとも意図的にスヴォーロフに困難をもたらそうとする行為が、日常茶飯事となっていった。

 元帥の気を2次的な問題に逸らさないという名目のもと、民事、政治、軍事の権力は、メラス将軍に委ねられた。

 そしてスヴォーロフ指揮下のオーストリア軍の将軍たちと帝国戦争評議会の間には直接の連絡が確立された。

 これを察知したスヴォーロフはオーストリアの将軍たちを敵でありトゥーグトのスパイであるとみなし、信頼しなくなった。

 命令の統一性と一貫性は失われ、意図的でないだけでなく意図的な誤解や機能不全が頻繁に発生するようになった。

 軍への食糧補給の困難さと混乱は日々増大し 、物資は不足し、行軍中の兵士への補給は主に徴発によって、馬への補給は採集によって行われた。

 ロシアの将軍が注文した物資をオーストリアの将軍が注文しなかったという出来事も頻繁にあった。

 ある時、ロシア兵が喉の渇きを潤すために川の水を木のスプーンですくって飲んでいるのを見たスヴォーロフ元帥がともにこのイタリア風スープを飲み「もうお腹いっぱいだ、満腹だ」と言って行軍に戻ったという一幕もあった。

 オーストリアの使節を通じて兵士たちに時折届けられるパンは、焼き加減が悪く、腐った小麦粉で作られていることがあり、肉は新鮮ではなく、ワインは水で薄められていたりしたためロシア軍は不満を漏らした。

 そしてスヴォーロフと親しくなり敬意を示していたオーストリアのシャストレー将軍はウィーンからの指示とは異なる行動を取らざるを得なくなり、メラスに冷淡になり、トゥーグトの不興を買った。

 オーストリアのこの目の細い指導者(トゥーグトのこと)は目的達成のための手段を選り好みしないだけでなく、目先の利益(マントヴァ要塞など)を得るために大局を理解せずフランス軍との戦いを蔑ろにしようとしていた。

 ウィーン宮廷に抗議したとしても無駄であり、ロシア皇帝パーヴェル1世に訴えるのも時期尚早だった。

 スヴォーロフに残された手段は、ロシアの駐ウィーン大使に書簡を送り、陰謀と策略に反対するよう促すことだけだった。