シリア戦役 71:ハルガ・オアシスへの遠征の中止とベリヤード将軍によるクセイル遠征【ドゼー将軍の上エジプト征服】
General Belliard's expedition to Quseir
エル・ロウ遠征の中止とクセイル遠征準備の遅延
※アシュートとエル・ロウの位置関係(1818年の地図)。この地図ではハルガ・オアシスは“EL Ouah”と書かれている。
1799年5月15日、ドゼー将軍はアシュートに到着するとすぐにラクダを集め、ワインを入れる袋の製作に取り掛かった。
目的は約230㎞の砂漠の行軍を行ないエル・ロウ(ハルガ・オアシス)にいるムラード・ベイを討つことだった。
※古地図にはハルガ・オアシス周辺地域のことがエル・ウォー(El War)やエル・オゥ(El Ouah)などと書かれている。エル・ロウはベルティエの回想録に書かれている呼び名であり、ベルティエの回想録は固有名詞のスペルが実際と異なる場合が多いため恐らく口述筆記されている。そのため、エル・ウォーがエル・ロウになったのだと考えられる。
この時ドゼーはムラード・ベイの策動を完全に封じ込めるためにエル・ロウ遠征とクセイル遠征を同時進行で実行することを計画していた。
しかしクセイル港にイギリス艦が現れたとの知らせが届けられた。
報告によるとビル・エル・バールでの戦闘の1ヵ月後の5月2日に2隻のイギリスのフリゲート艦が紅海に現れ、紅海の底まで航行したが、受け入れてくれる港を見つけることができなかったようだった。
そのためドゼー将軍はクセイル遠征に集中せざるを得なくなり、クセイル遠征を早める必要があった。
しかし間の悪いことにクセイル遠征の指揮官となるはずだったベリヤード将軍が重度の眼病に罹患し、遠征準備が遅延していた。
そのためドゼーは、副官のドンゼロ(Donzelot)大佐をベリヤード将軍の補佐または交代要員として派遣した。
アスワンの戦い
5月16日午後2時アスワンから約2㎞の地点に到着したルノー大尉は攻撃すると警告を受けた。
ルノー大尉が戦闘準備をまだ完了していなかったとき、マムルーク軍は全速力でルノー大尉の部隊に向かってきた。
ルノー大尉の部隊はこの突撃を冷静に迎え撃った。
突撃は極めて激しいもので、15人のマムルーク兵が隊列の真ん中で倒れた。
ハッサン・ベイ・ジェダウイは銃剣で刺されて負傷し、彼の馬は殺された。
オスマン・ベイ・ハッサンは2発の銃弾を受け、10人のマムルーク兵が戦場の大砲の射程範囲内で死亡した。
マムルーク軍にとってこの戦いは絶望的であり、アスワンの先の滝(ナイルの急流)の上への撤退を余儀なくされた。
ルノー大尉がアスワンに入ると25人のマムルーク兵が負傷して死亡しているのを発見した。
アスワンの戦いでのマムルーク軍の損害は死者50人、負傷者60人以上であり、対するルノー大尉の部隊の損害は死者4人、負傷者15人だったと言われている。
その後、マムルーク軍は何度かアスワンに戻ってきたが、その度に滝の上に追い返され、不作による飢餓が蔓延るヌビアで悲惨とあらゆる悪が彼らを襲った。
ベリヤード旅団によるクセイル遠征
※1799年5月26日、ベリヤード将軍のクセイル遠征
5月26日、ドゼー将軍によるクセイル遠征隊の検閲の後、ベリヤード将軍とドンゼロ大佐は500人の兵士を率いてケナを出発した。
クセイルの住民の呼びかけに応じた首長たちが遠征隊をケナまで出迎えに来た。
フランス軍は川と海を隔てる荒涼とした山岳地帯の峡谷や峠(東部砂漠)を越え、通過のために準備された駅、貯水槽、キャラバンサライを見つけ、出発から約4日後の5月29日、ほとんど疲労することなくクセイルの港に到着した。
その後、ベリヤード旅団はすぐにクセイル港を占領し、いくらかの修復を行えば重要な拠点となり得る要塞を見つけた。
これによりフランスの国旗がスエズからクセイル一帯にはためき、上エジプトにおける大きな抵抗勢力はハルガ・オアシスに避難したムラード・ベイ率いるマムルーク軍のみとなった。
ドゼーは砂漠を越えてハルガ・オアシスへの遠征を再開することを考えたが、ムラード・ベイ軍は大きく弱体化していたためハルガ・オアシスへの遠征は緊急を要するものではなくなっていた。
そのためドゼーは上エジプトの統治機構を組織することに全神経を注いだ。
正義のスルタン
※「エジプトのドゼー将軍(Le général Desaix en Egypte)」。ルイ・デヴェドゥ(Louis Devedeux)画。19世紀
ドゼーの名は上エジプトとアラビアに広まっていった。
彼はボナパルトの政策に従いイスラム教や現地の慣習を尊重する施政を行なった。
裁定者となったドゼーは法廷をヤシの木の下で開き、公正な裁判を行った。
民衆たちはファイユームでの評判と感謝の気持ちからドゼー将軍を「正義のスルタン」と呼ぶようになった。
しかし、ドゼー将軍は融和政策を行ないながらも上エジプトの安定に必要な措置を断行していた。
税として武器を取り上げ、エジプトでは贅沢品か戦争の道具でしかない馬を引き渡すよう民衆に要求し、服従が遅れた町に対する処罰は厳しいものとなった。
マスケット銃、棍棒、戦斧、マムルークの鎖かたびらの売却を奨励することにより、現地民から武器を取り上げた。
そしていくつかのベドウィンの部族と平和条約を締結し、平和条約に応じなかった部族は巡回部隊により砂漠に閉じ込められた。
ドゼー将軍の遺跡巡り
※アンテオポリスの遺跡。19世紀初め頃。アンテオポリスは現在のカウ・エル・ケビル(Qaw el Kebir)である。
※ローマ皇帝ハドリアヌスが西暦130年から131年にかけてエジプトを訪れた際、不運にも愛人であるアンティノウスがナイル川で溺死してしまった。悲しみに暮れたハドリアヌスは、若き恋人の死の地の近くにアンティノポリスという都市を建設することで、アンティノウスを偲んだと言われている。
ドゼー将軍は上エジプトの統治を行いながらアシュートを離れ、各地にある遺跡を巡った。
ナイル川右岸を遡り、アンテオポリス(Antaeopolis)の唯一残った部分である柱廊の前で立ち止まり、アフミームの町の土台の下に、世界最古の都市の一つであるケムニス(Chemmis)の跡を発見した。
コプト人はドゼーにハムとその息子ミツライムの思い出を語り、イスラム教徒たちは、蛇の体の中に聖なる修道僧の霊が住んでいたという伝説や、悪魔アスモデウスの霊が住んでいたという伝説があるシェイク・エル・ハリディ(Scheik El-Haridy)の墓へ連れて行った。
※シェイク・エル・ハリディ(Scheik El-Haridy)の墓は、現在のナジラト・アル・ハリディ(Nazlat Al Haridi)にあったのではないかと考えられる。
※旧約聖書の『トビト記』によるとアスモデウスは大天使ラファエルによって捕らえられ、エジプトの奥地に幽閉されたと言われている。もしかしたらアスモデウスが幽閉されたエジプトの奥地とはナジラト・アル・ハリディ(Nazlat Al Haridi)かもしれない。
そしてアフミームのキリスト教徒たちは修道院の壁に囲まれた境内へ案内した。
ドゼーはアンティノポリス(Antinoöpolis)の遺跡の発掘を命じ、見事な細工の彫像2体を発見した。
1体はアンティノウス、もう1体はアポロンの像で、これらをカイロに運ぶためにアラブ人に託した。
アンティノウスの像はカイロに届けられたが、無知なフェラ(農民)は荷物を軽くするためにアポロンの像をナイル川に投げ捨てた。
そのためアポロンの像は永遠にナイル川に沈み、失われてしまうこととなったと言われている。
※「エジプト誌 [図版],第4巻」にアンティノウス像の断片のスケッチが収録されている。
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