シリア戦役 72:ヴィンタートゥールの戦い【スイス戦線】
Battle of Winterthur
ヴィンタートゥールの戦い前の両軍の配置
※1799年5月26日、ヴィンタートゥールの戦い前の両軍の配置
アンデルフィンゲンの橋が破壊されプフィン橋を失ったことにより、マッセナは軍を最初の陣地に集中させた。
そして前衛師団の指揮をネイ将軍に委ね、ヴィンタートゥールにヴァルター将軍率いる騎兵予備隊を残した。
ウディノ師団はネフテンバッハ、スールト師団はテス川とグラット川の間、パイヤール師団はタロー将軍とともにウディノ師団の左側に陣取り、これら4個師団をタロー将軍が指揮していた。
一方、1799年5月26日、カール大公はロイス将軍に師団を率いてプフィンに移動するよう命じた。
ホッツェ将軍はカール大公から5月27日にフランス軍前衛部隊へ攻撃するよう命じられており、ロイス師団はホッツェ師団を支援するために派遣されたのである。
ナウエンドルフ将軍はアンデルフィンゲンの橋の修復作業を終日続け、カール公は6個大隊を率いてアンデルフィンゲン近郊でナウエンドルフ師団と合流した。
夜、ホッツェはシュヴァルツェンバッハ、マッツィンゲン、プフィンに散らばっている部隊を集結させ、フラウエンフェルトとトゥットヴィル(Tuttwil)の間に2つの駐屯地を設け、前衛部隊をイスリコン(Islikon)とエルック(Elgg)へと前進させた。
ホッツェ師団のヴィンタートゥールへの前進
※1802年のヴィンタートゥール周辺地図。赤はオーストリア軍、青はフランス軍の占領地を示している。
5月27日の朝、ホッツェ将軍は3縦隊でヴィンタートゥールへの前進を開始した。
※恐らくイスリコンから1個縦隊でヴィーゼンダンゲンへ、エルックから2個縦隊でショッティコンとシュトッケンへ向かったのだろう。
ネイ将軍はオーバーヴィンタートゥール(Oberwinterthur)近郊の沼地に囲まれた丘を占領していた。
※恐らくオーバーヴィンタートゥールの西にある標高551mのリントベルグ(Lindberg)山だろう。リントベルグ山にはビオトープなどのいくつかの沼地がある。
ネイ将軍は接近してくるホッツェ師団の規模を見て、師団総兵力約6,000人では対抗できないと判断しヴィンタートゥールへの撤退を計画した。
しかしそこへ上官であるタロー将軍がやって来てスールト師団を支援に向かわせることを告げた。
ネイ将軍は「この場所で抵抗しホッツェ師団を食い止めよ」という命令だと理解し、ヴィンタートゥールへの撤退計画を破棄し、戦闘態勢を整えた。
ネイ将軍はガザン旅団(4個大隊)にイスリコン方面へ前進を命じ、中央を指揮するロジェ旅団(2個大隊)は右翼を脅かすオーストリア縦隊を攻撃するためにヴィンタートゥールへの進軍を命じ、ネイ自身はガザン将軍率いる左翼を支援することにした。
右翼であるヴァルター騎兵隊(3個騎兵中隊)はヴィンタートゥールを守った。
ホッツェ師団のそれぞれの縦隊の前衛部隊はヴィーゼンダンゲン(Wiesendangen)、ショッティコン(Schottikon)、シュトッケン(Stocken)にあるネイ師団の前哨基地を次々と駆逐し、そしてすぐに師団主力をガザン旅団の前線に向けて展開し、縦隊の1つでネイ師団の右翼を包囲すべく機動した。
ネイ将軍の奮戦とヴィンタートゥールへの撤退
ロジェ旅団はシュトッケンからヴィンタートゥールに向かうオーストリア軍を敗走させたが、ガザン旅団は兵力があまりにも少なかったためヴィーゼンダンゲンから来るオーストリア軍に撃退されネイ将軍率いる本体の元に退却した。
ネイがヴィーゼンダンゲンとショッティコン方面から来るオーストリア軍の進軍を見た時、スールト師団がすぐに駆けつけてくると思っていたためフラウエンフェルトの戦いの時のように勝利できると考えていた。
ネイは獅子のように戦ったがスールト師団は到着せず、オーストリア軍の縦隊は目に見えて増加していった。
そしてオーストリア軍の一斉射撃でネイと乗馬は倒れ、乗馬は戦死しネイ自身も銃弾で膝を負傷した。
ネイはガザン将軍に一時的に指揮権を譲り渡すとすぐに別の馬を呼び寄せた。
そして膝の傷口に簡単な手当を施すやいなや再び戦場の最前線へと飛び込み、しばらくの間オーバーヴィンタートゥールの戦線を維持した。
オーバーヴィンタートゥールに展開しているホッツェ師団の兵力は約8,000人であり、2つの縦隊でフランス軍の正面を攻撃していた。
対するネイ師団の兵力は約6,000人であり、明らかに劣勢な状況だった。
加えてシュトッケンは占領され、ヴィンタートゥールが脅かされていた。
このままではヴィンタートゥールは占領され、ネイ師団の退路が断たれてしまうか危険があった。
そのためネイ将軍はヴィンタートゥールへ撤退することを余儀なくされ、ヴィンタートゥールの防衛にあたった。
カール大公軍のネフテンバッハへの攻撃
一方、カール大公はアンデルフィンゲンの橋の修復後、すぐにヴィンタートゥールとネフテンバッハへ進軍していた。
進軍中、ホッツェ師団がオーバーヴィンタートゥールで勝利しフランス軍をヴィンタートゥールに追い込んだことを知ったカール大公はネフテンバッハ周辺に軍を集中させ、ネフテンバッハを防衛していたウディノ師団を攻撃した。
ウディノ将軍は粘り強くネフテンバッハを防衛したが兵力に差があり過ぎた。
ネイ師団のヴィンタートゥールからの撤退
ネイ将軍は長時間ヴィンタートゥールを防衛しスールト師団を待ったが来る気配さえ感じられなかった。
スールト師団の姿を見るのを諦めたネイは、遂に撤退の準備を整えた。
ネイ師団本体がヴィンタートゥールから撤退しテス川を渡るまでの間、その撤退を守る必要があった。
ヴァルター騎兵隊はこの撤退支援任務を与えられ、テスで防御陣地を築くよう命じられた。
テス川での防衛とネイ将軍の戦線離脱
※1831年のテス周辺地図。ヴィンタートゥールとテス、シュタイク高地の位置が分かる。
ヴァルター将軍指揮下にある予備騎兵隊はヴィンタートゥール南西のテス川のほとりにあるテスを占領して橋を防衛し、ネイ師団本体はテス川背後にあるシュタイク高地に陣取った。
ヴァルター騎兵隊はテスで粘り強く抵抗した。
しかし1時間半後、オーストリア軍の猛攻により橋まで押し戻された。
ヴァルター騎兵隊は橋を渡らず占領するのみに留めた。
ネイはシュタイク高地から砲撃を行い、橋に攻勢を仕掛けてくるオーストリア軍に壊滅的な打撃を与えた。
そのためホッツェは橋への攻撃は無駄な損害を出すと判断し、小競り合いのみに留めた。
その後、ネイ将軍は再び負傷しガザン将軍に指揮権を委譲した。
ウディノ師団のネフテンバッハからの撤退とフンゲンの喪失
カール大公と戦っているウディノ師団は夕方までネフテンバッハを防衛していた。
しかしヴィンタートゥールを守るネイ師団がヴィンタートゥールから撤退したことを知るとネフテンバッハでの防衛を諦めフンゲン(Pfungen)へ撤退することを決意した。
日が暮れるとウディノ将軍はフンゲンへの撤退を開始し、フンゲンを占領した。
しかしそのフンゲンでも夜に攻撃を受けて追い払われた。
ウディノ将軍はフンゲンを取り戻すために夜10時頃に攻撃を開始した。
しかしフンゲンを奪還することはできなかった。
フランス軍の撤退とヴィンタートゥールの戦いの終わり
フンゲンが占領されたことによりガザン将軍が指揮するネイ師団の位置は危険なものとなった。
カール大公軍がネイ師団の側面を攻撃可能となったからである。
マッセナはすぐに各師団に撤退を命じた。
ネイ師団にはシュタインからグラット川方面に撤退するよう命じた。
ウディノ師団にはクローテンに布陣するよう、タロー将軍率いるパイヤール師団にはビューラッハに撤退してバヒェンビューラハの森の端に沿って師団を展開するよう命じた。
そしてスールト師団にグラット川を渡るよう命じた。
オーストリア軍の損害は、多数の死傷者、捕虜800人であり、フランス軍の損害は死傷者と捕虜の合計約500人、大砲4門だったと言われている。
タロー将軍によるスールト将軍の非難
戦いの後、タロー将軍はスールト将軍の命令違反を非難した。
タロー将軍は明確にスールト将軍に対してネイの側面へ師団を移動させるよう命じていたのであるが、スールト将軍はこれを無視した。
スールト将軍はタロー将軍に対し個人的に敵意を抱いており、それが命令違反の原因だった。
もしスールト将軍が個人的な感情に支配されずネイ将軍の元に駆け付けていたら、ヴィンタートゥールの戦いでフランス軍が勝利し、もう少し長くテス川を防衛することができた可能性も否定できない。
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